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最小単位は“私”ではなく“私たち”

時代とともに働き方が変わって行く中でみんなぶち当たるのが「自分は何が得意なんだろう?」とか、「使命とはなんだろう?」みたいなことだと思うんだけど、みんなどうなんだろう。

自分らしい働き方となると、「だったら自立しよう!」という働きかけに自然とつながっていきがちだが、結局それってポジショントークでしかないと思うんだ。
「誰でも簡単に起業できる」とか、「誰でも簡単に稼げるようになる」っていうのは全ての人には当てはまらない。

あいつやあの子、周りの人を思い浮かべた時に一人で稼いで、スケジュール管理して、うまく人付き合いをして、、そんな器用な事はとてもできないだろうなというような人が何人か思い浮かぶ。
その人にしか無い魅力を持っているはずなのに、今の社会のルールではうまくやっていけない人。
こんな人たちと一緒に生きて行きたくてコミュニティをやっているし、そんなコミュニティに可能性を感じている。
「みんな自立してたくましく生きていこう」という言葉は、結局自分のことだけみたいで、なんだか冷たく感じてしまいます。


最終的に決めたり行動するのは個人という最少単位なんだけど、もうちょっと一緒になって考えられる繋がりというか、
家族が一番それには近いんだろうけど。
見返りを求めなくていい繋がり。
お金じゃない価値交換というか、もはや交換する必要もなくていい。


身体で考えるとイメージしやすいけど、生きている間、絶え間なく動き続ける心臓と、寝ている時は休んでいるを比較して「不公平だ!」とは思わないように、人と人にもこうした役割があると考えるとわかりやすいかもしれない。
働き者の臓器も、よく動く手足も、シャンプーした時に抜け落ちる髪の毛も、全ての存在に意味があってみんなで身体を形成している。
そこに優劣は無くて、みんなが自分の役割を果たしている。

この考え方だと、コミュニティマネージャーは血液のようなものかもしれない。体中を巡ってみんなにいろんなものを届ける。

助け合える理想のコミュニティとは、こうした身体のようなものなのかもしれない。

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