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アウシュビッツ収容所博物館を見学してから10年以上、心に抱き続けていること

 私は人間の性質や感情について、オセロの駒のようなイメージを抱いている。「怒りっぽい・怒りっぽくない」「思いやりがある・ない」などの様々なパラメーターがあり、ほんのちょっとしたきっかけで、1つ1つの駒が表になったり裏返ったりする。基本的な性格の傾向はあるとしても、思いやりがあるように見えた人が突然暴言を吐いたり、冷徹に見える人が突然感動の涙を流したりすることもある。その時々でどのような性質が現れるかは、誰にもわからないのではないかと思う。

 このイメージは、夏目漱石の「こころ」で、「先生」が書いていたことにも影響を受けている。

君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。

夏目漱石「こころ」上 先生と私

 さて、このような人間の心に関する私のイメージを強化することとなった出来事の一つが、2012年にアウシュビッツ収容所博物館でうかがったガイドさんの話だ。

 私は10年以上前の大学4年生のとき、ポーランドに留学した。高校生のころからホロコーストの歴史に興味があり、ポーランドへ行くならアウシュビッツを訪れなければと思っていた。アウシュビッツ収容所はドイツにあると勘違いされることもあるが、実はポーランドにある。留学時代に私が住んでいたクラクフからは、バスで2~3時間だ。なお、「アウシュビッツ(Auschwitz)」はドイツ語名で、ポーランド語では「オシフィエンチム (Oświęcim)」という。

2度目の訪問は2月、最高気温マイナス10度の日だった

 アウシュビッツは2回訪れたが、そのうち1回は、ガイドつきで博物館を見学した。広い博物館を一日近くかけて回ったあと、見学の終盤にガイドさんが話してくださったのは、あるナチスの幹部が家族に書いた手紙の話だった。(※10年以上前のことなので記憶が曖昧なところもあり、以下の話は正確ではない点もあることをご了承ください。)

 その幹部は、ユダヤ人たちを容赦なく殺した人間でありながら、自分の家族や娘に対しては非常に思いやりのある手紙を残している。ナチスの幹部といえば冷徹なイメージを持つが、ごく普通の家庭のお父さんと同じように、家族を愛する一面もあったのだ。
 —―同じ一人の人間のなかに、そうしたまったく異なる面があるというのは、どういうことなのか。
 ――ここアウシュビッツで起きたことは、ドイツだから起きたことではない。世界中のどこでも、いつでも起こりうる。自分事としてこの問題を考えていってほしい。
 確か、そんなお話だったと記憶している。

 それ以来、その問いをずっと心に抱きながら私は生きている。
 自分の中にも攻撃的な面はある。自らの差別的な発言に後で気づいて、ひどく恥ずかしく、動揺したこともある。
 そうした一人一人のうちにある攻撃的な面は、集団になったときに暴走しはじめるかもしれない。集団のなかで、自分の攻撃性を自覚してコントロールするには、いったいどうしたらいいのか。

 10年以上ずっとこの問いを抱いてきたが、"自分にも攻撃的な面がある"、"たとえ意図していなくても、自分の言動が人を傷つける可能性がある"という自覚を持ち続けるという答えしか、まだ私の中にはない。

 さて、先日、映画『福田村事件』について知った。
 100年前に起きた関東大震災直後の混乱で、様々な情報が飛び交うなか、朝鮮人だと疑われた日本人9名が殺された。この「福田村事件」を題材として、集団心理の怖さをテーマに作られた映画だという。

 この映画のなかにも問いを考え続ける種がありそうだ。関東大震災からちょうど100年後の、2023年9月1日に公開とのこと。ぜひ観に行きたいと思っている。

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