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『社会を結びなおす』 (本田由紀著)を読んで

みなさん、現状の日本についてどの程度知っていますか? 毎日生活しているのだから「そりゃ、わかっているよ」と思っていることでしょう。LINEやYahoo!のネット記事をチェックしているよとか、毎日ちゃんと新聞を読んでいますよとか、さらに経済雑誌などを丹念に読んで社会や経済動向を把握しているんだからと。

また茫漠と資本主義社会であるとか民主主義だとかそんな風に習ったことを思い出すかもしれません。けれども、私たちの社会構造がどのように社会学的に理解されているのかを知っている人は少ないのではないでしょうか。

日々の仕事に追われた生活をしていると、その視野は目の前の事象に釘付けになってしまいます。物事を広く深く理解するという視点を得る事は二の次になりがちです。私も随分と狭い視野で生きてきました。日々のネットニュースをみても、Youtubeで社会問題を見聞きしても、それらの事柄に眉をひそめるばかりで、なぜこのような事が生じるのかについての視点を得る事は困難に感じています。

一方では、このような状況にかこつけたネットメディアでは如何にもこれが答えだという言明が飛び交い、誰々が悪いというような話で終始しています。そして少なくない人たちがそれらに乗せられてしまっています。結果として無益な言論が飛び交っているというのが現状でしょう。

実のところ、場当たり的に各イベントがなぜ生じるのかを説明する事は難しくありません。例えば、自民党による裏金問題。政治には金がかかると主張する彼らですが、それは票やポストを利益誘導によって得ているからです。権力の源泉が金であるがゆえに、金を得る必要が生じ、金を得られる手段を模索した結果がこの裏金問題なのです。

しかし、実際には話はここで終わりません。ではその金を捻出するのは誰か? それはもっぱら企業です。企業は政府方針によって税制などが変わることを嫌います。いやむしろ自分達に有利な税制にして欲しいと考えています。それゆえ、政治に口を挟む動機をもっています。では政治家に手ぶらで頼めばよいのか? 政治家のために企業が用意できるのは票と金です。ここに政治家と企業の癒着が生じる動機が生まれます。

企業が政治に介入するのは当然ながら儲けたいからです。ではなぜ企業は儲けなければならないのか。本来的には、儲けが必要なのはその事業を遂行するためです。社会が必要とするサービスを有償で提供することです。ドラッカー曰く利潤自体は手段です。しかし現実的には企業の儲けたい動機はもっぱら私利私欲的なもの。私利私欲と言っても組織上のことですから、めちゃくちゃ儲けたいというよりも「出世したい」とか「自分のポジションを確保したい」とか「経営者を続けていくため」などであり、最終的には投資家に対して説明を果たせれば良いというものです。これらを内部的な人たちには当然のことであり、些細な欲だと思っていることでしょう。

人口ボーナス期には経済は放っておいても回ります。また核家族化によって個人の経済行動領域が増えれば、経済は拡大します。単純に言えば、市場活動をする人間が増えれば経済は回るということです。人口が増えるとは金を使う人が増えることですし、核家族化で共有材が減り、家を買う人、車を買う人、資源を使う人が増えれば、同じく金を使う人が増えるわけです。一家に一つだったものが、一人に一つとなればざっと4倍となります。
 各家族が購買して経済が回れば、企業が儲かります。各企業が儲かれば、投資を増やしてさらに生産を増やします。そうして拡大していくのがいわゆる古典的な資本主義社会構造です。資本は次第に蓄積し力を持つことになります。

各家庭では経済活動に伴い「子どもが再生産」されます。ドライな表現ですが、子どもたちは未来の労働者であり消費者ということになります。彼らを維持するにはコストがかかるわけです。現代社会では教育にかかるコストは増加しています。その背後にあるのは、将来的な生活の良し悪しに教育が関係する社会になっているからです。各家庭では子育てコストを賄う必要があります。また、それに伴う環境つまり居住費と維持費が必要になります。

日本社会では個人は金を得るために世間に入り込む必要があります。自由にできる土地があってそこから資源を得られる人や、相続で十分な資産があり、それを投資することで生計が立てられるという人はわずかでしょう。実際には社会で行われる経済活動のどこかに入り込む必要があります。その際に、可能な限り有利な場所に入り込むための手段が学歴であったり、コネクションであったりするわけです。むろん、それぞれを得るにもコストがかかります。

さて、裏金からたいぶ話が流れましたが、社会の諸々は地続きでつながっていて、これらが互いに関わり合いサイクルを形成しているという事が伝えたい事です。金を得るために各個人は就職し家族を形成し企業体を支えます。企業体は利潤を得るための行動を繰り返しながら、資本を増殖させていきます。その資本を利用して更なる経済活動に勤しむわけです。すると給与という形で金が個人に流れ、個人が家庭を形成し労働者・消費者を再生産します。その彼らがまた教育という場を通じて社会へと組み込まれていくという事です。加えて政府や行政が仕事分野に口を挟むという構図があります。

このような構図を図に起こしたものが以下です。


「社会を結びなおす」(本田、2014)より改変

この仕組みを本田氏は「戦後日本型循環モデル」と呼んでいます。”モデルの最大の特徴は、仕事・家族・教育という社会分野が、①極めて太く堅牢で、②一方向的な矢印によって結合されている”と本田氏は主張します。

私にはこの見立てはとても便利でリーズナブルだと感じられます。戦後の日本では大家族が崩れ、核家族化しました。その動きを作り出したのは経済構造そのものであり、農家から会社員へと変貌を遂げます。多くの子息が仕事を得るために都会に移動し、会社組織の労働者として生計を立てることになりました。一般的に父親が会社で働き、その賃金を母親が家庭で運用し、その一部を子供の教育へと回します。その子どもが新たに労働市場へと組み込まれていくというものです。

留意:人によっては政府の介入が教育や家族に向かってもいるだろうと考えることでしょう。もちろんそうです。しかし政府からの教育や家族に対する財政支出は非常に抑えられています。

このサイクルを循環させながら、高度経済成長は進み、各家庭の経済状況は向上してきました。本田氏はこの図に<ヒト><カネ><ヨク>といった動機や、単純な循環ではなく発展という意味で垂直方向の動き、また地域間の人移動、性別や年齢に応じた役割分担という要素を追加して説明していきます(ここでは省略)。

加えて本田氏はこのモデルはその成立とともに既に問題を孕んでいたと指摘します。それはこの矢印が強力に作用した結果、この仕組みを回す事が形式化され目的化したことです。よりよい生活のための手段であった仕組みがいつの間にか、仕組みを維持するために人々が行動するようになったというのが、現状の問題を明らかにしていく視座となります。

経済がまだ順調であった1950年~80年代では、この循環モデルは機能していました。ところが景気の波や社会情勢の変化、政府の失敗した経済政策(消費税導入と法人税・所得税減税)など通じて、循環は停滞を見せ始めます。

そして1990年~2000年代と、いよいよ回らなくなってくると、それぞれの現場が疲弊を始めるわけです。人口オーナス期になれば需要減少により大きな利潤を得ることは難しくなります。利潤がでなければ新規の労働力の供給に対応ができなくなります。それでも人は生きるためにカネが必要です。また企業も人手がいらないわけではありません。そこに新自由主義思想から、非正規社員が社会のあらゆる分野に拡張されました。結果、一部の人々はやむを得ず非正規社員となって働くという選択を余儀なくされました。(氷河期世代の誕生

企業の利潤がもっと減れば、そもそもの社員を維持することが難しくなります。そこではリストラや左遷などが発生します。すると社員たちは雇い主に文句を言いにくくなります。「俺には家のローンがあるんだ」「妻や子供のため」と、理不尽な会社の扱いにも耐えざるを得なくなります。(社員の社畜化・長時間労働の強要

一方で、新規労働力は供給過多になります。それを非正規で無理やり吸収する仕組みが分かってくると、それを避けようとします。家庭では子供を「選ばれる人間」にしようとし、教育過剰な体制が生まれていきます。リストラされたお父さんをみて「ああならないように」と思うわけです。

能力優先主義になれば、子どもたちは学力によるサバイバルに放り込まれます。友達は友達かつライバルになります。そのような関係性で果たして健全な友情やかかわり合いが保てるのか。また受験では勝者と敗者が生じます。勝者は「自分は勝ち残ったのだ」と認識し、敗者は勝者に対して羨望と恨みをもつことになります。メリトクラシーが跋扈するのもうなずける話です。(受験競争の弊害
 実をいえば、仮に能力を高めたとしても、それは将来を全く保証しないということをすっかり見落としています。

受験競争に勝つ子供を育てることを第一に見据えた家庭においては、母親とはどういう存在になるのか。父親の少ない給与をやりくりして、なんとか教育費を捻出する。場合によっては自分の事は全部後回しにします。そうやって育てた子供に母親たちがつきまとうのは当然の事でしょう。昨今のモンスター化した親たちは、この仕組みの犠牲者でもあります。また父親の給与では足りぬとなれば、日常的な費用や子供の塾代・教育費を賄うために、パートやアルバイトをする事になります。それらの仕事には発展性というものは少ないものです。やりがいを感じながら働いている人がどれくらいいるのか。(女性の働き方問題

こうして、それぞれの領域つまり、仕事、家庭、教育の場において人々が蔑ろにされ、各人が「一体なんのために生きているのか?」と実存的問いを求めるようになったしまったわけです。

本来ならば、日々の生活や仕事そのものに意義を見出す必要があります。自分の行為が社会を良くしていると感じたり、自分が求められていると感じられたりすること。それが人生を豊かにします。しかし、役目を果たすことが第一義になれば、何かを実感している暇があるでしょうか? 効率性や合理性を追求し利潤を増やすことばかりに気を取られていたら、日々の中でどう「幸せ」を感じれば良いのでしょう? 少なくない人たちが人生に嫌気を感じているのではないでしょうか。

それでも「まあ、それなりに満足している」とか「自分は役割を果たそう」とか、現状の生活を肯定し、余裕を持てる人たちは大丈夫でしょう。しかし実際的にはうすうす事態の深刻さに気が付きながらも、目の前の仕事や快楽によって問題をやり過ごす人が大半ではないでしょうか。日々を酒や煙草、セックスなどでごまかし、時にレジャーなどといって旅行することでウサを晴らす。稼いだ金を本当に必要なのかも分からないものにつぎ込んで消費する。またはパチンコや競馬・競艇などのギャンブルに興じる。結局、金を使って深刻にならないようにと努めているとも言えます。
「嫌な仕事」でストレスをためて、その金で憂さを晴らすというような矛盾を生きている人も少なくないのでしょう。

さて、どうでしょうか? 今まで見たきたように、本田氏の示した循環モデルの崩壊という視点から、現代日本の様々な問題点がクリアーになったと思いませんか。これが私がこのモデルを評価するところです。

現実問題として、すでに上記の循環モデルは破綻しています。けれども、多くの市民や施政者はこれを対処して、あの40年前に戻そうと考えているわけです。それは土台無理なこと。なぜならそもそもからして、このモデルは戦後の短期間にしか通用しないからです。ここから生じる問題に手当を施しても、そもそもの構造を変えない限りは問題は次から次に生じることになります。政治的にちょこまかと何かを手当してどうこうなるものでもありません。あの頃を懐かしむのはただのノルタルジーに他なりません。

父親の役割、母親の役割、子供の役割を再度、強化すればよいという人たちもいます。しかし、21世紀はもはやそのような社会ではありません。多様な社会状況があり、同じ核家族といっても同じような土台に乗っているとは限りません。とりわけ家庭での役割を押し付けられてきた女性たちの鬱憤はもっと理解され、現実社会での役割を変えるべきでしょう。同じことは男性にも言えます。男社会というだけで生じるハラスメントに耐えているのは、女性だけではありません。男はマッチョに生きるべきだというような主張はもう時代遅れなのです。

ではどうすると良いのか。本田氏は、まずはこの一方向的な矢印を双方向に変えるべきではないかと主張します。双方向にすることで、それぞれの分野が互いに支え合うことが可能ではないかという発想です。家庭が教育を支えてきたわけですが、教育が家庭を支えるという事。例えば学校が子供を通じて各家庭をサポートする。また教育と仕事では、仕事が教育に対して求める事は何かを具体化する。必要とあればリスキリングを可能にする。家族と仕事ではワークライフバランスを念頭に、家庭から仕事へ多様な就労のあり方を要求する。長時間労働を減らすことを要求する。むろん、これらを実現するための予算や人材確保などは政府や行政の仕事となります。

また時代背景を踏まえて雇用形態のあり方として、メンバーシップ型ではなく、ジョブ型への切り替えや、社会的セーフティネットアクチベーションについても提言しています。

上記のそれぞれは確かにと感じられる主張です。ただ私には、どこか釈然としない感覚もあります。教育が家庭に対して提言する、家庭が仕事に対して提言する、仕事が教育に対して提言する。それが可能なら既にそうなっているという気もするからです。

これら非対称性が生じるのはカネの問題がある気がします。何らかの方法でカネを得なければならないという事が通奏低音のように響いています。一言でいってしまえば、貨幣経済であり、その運用法が資本主義であるという事です。

また一方で、カネと政治の問題のように、カネによって人々の行動を変化させることが可能という側面が間違えなくあります。循環型モデルがどうしてこうなってしまうかは、資本主義という観点が必要にも思われるのです。その点については本田氏の本の範疇外ではあるのですが。

もし、我々がカネから自由になれたら。私はここから出発する議論が必要ではないかとも思うのです。

ともかくも、本田氏の「社会を結びなおす」は非常に示唆的な本です。岩波のブックレットはとっても薄い本ですので、興味をもたれたかたはぜひ手に取ってもらえたらなと思います。現状日本を記述する良い視座を手にすることができるでしょう。


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