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新しい生き方に挑戦するとき、いつも壁に行きあたる

まだ何か実績があるわけじゃない。
昔、小さな文学賞の二次選考に落選したことがあるくらいだ。
そんなことを思いながら、今日も淡々と生きているわけだが、ここ数か月は生きることは苦行のように感じて、ずいぶん苦しく感じていたのを覚えている。まだ本気で生きれていないのか、突き詰めれて考えれていないのか、読書量が足りないのか。理想は現実を超えていかない。それは当たり前の話であって、常に実績に裏打ちされた何かがなければ表現というものは成り立たない気がする。
突拍子もなければいいわけでもなく、理屈だっていればいいわけでもない。塩梅があり、リアリティがあり、人の気持ちを揺り動かす何かがそこになければならない。
人の本質とは遺伝子の運び手であることそのものであり、そういう意味では、ADHDとかASDみたいな手帳持ちと呼ばれるくらいの普段は弱男と呼ばれるくらいの男子のほうが怖いもの知らずで本当は良かったのかもしれない。
人には役割なんてないし、生きる意味もない。ただ命をつないでいくにすぎず、娯楽の多様化とか結婚観の多様化とか言ったところでそれは生命の本会から大きく外れているように感じる。金に主眼を置けば、高収入男子が望まれるのはわかる。だけど、普通の男子を弱男と言って笑うのは筋が違う気がするし、弱女達はそれによって救われるのか?という問題もある気はする。
弱男たちは階層化された社会の中で立派に社会の中で生きていくだろうし、人は依存先や支えがない孤立した状態ではどんなに人間でも価値観という意味では狂いを生じやすい。
かといってオールドメディアを信じていいのか、という問題ももちろんあるし、情報の新鮮さや曲解さを新しいメディアから無料で摂取することには疑問を感じたりもする。
人は人とのつながりにフックがなければ、なかなか思うような関係性を築き続けていくのは難しいように思う。一度会っただけとか、ネットだけの関係とか。それだけではではどうしても、フックが弱い気がする。
さてそんな支離滅裂な文章を書いたところで、現在自分は文章のリハビリ中である。書くというアウトプット能力が欠如している。
なにせ結婚している間、労働というものに全神経を傾けており、すっかり書く能力に関しては衰えに衰えてしまったようだからである。せっかく時間があるのだ。様々な形で文章力を取り戻していけたらと思う。

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