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平坂のカフェ 第4部 冬は雪(34)

 雪が荒れる。
 突如訪れた吹雪に桜の木が激しく揺れ、雪が涙のように激しく降り注ぎ、スミとカナを打ち付ける。
 スミの顔に動揺が走る。
 それは、カナが平坂のカフェを訪れてから初めてみたスミの表情の変化だった。
 カナは、スミの手をぎゅっと握る。
「俺が・・・」
 スミは、カッターに切り刻まれたような掠れた声を絞り出す。
「俺が・・・君の夫?」
 カナは、ぎゅっとスミの手を握る。
 その問いが正解であると伝えるかのように。
「思い出した・・・スミ・・・?」
 カナは、握ったスミの手を自分の頬に持っていく。
 カナの冷たくなった頬の温もりが伝わる。
「あなた・・」
 カナは、優しく微笑んだ。
「大好きな・・・あなた」
 左目からうっすらと涙が流れる。
「ようやく・・・ようやくあなたの名前を呼ぶことが出来た。大好きって伝えることが出来た・・・」
 スミは、大きく蹌踉ける。
 その反動でカナの手からスミの手が抜ける。
 スミは、そのままカウンターの中で転げてしまう。
「スミ!」
 カナは、カウンターから立ち上がる。
 カウンターの中は、空洞だった。
 スミとコーヒーを入れる器具と台だけが煙のように宙に浮いていた。
 そしてスミの膝丈から下は存在してなかった。
 スミは、コーヒーの器具を載せた台に捕まって立ち上がる・・・いや浮き上がる。
 カナは、悲しげな顔でその光景を見る。
「貴方は、平坂のカフェに縛られている。だからこの店から出ることは出来ない・・・カウンターの外に出ることが出来ない・・・そして貴方に関わることを話すことも出来ない・・・貴方は・・カフェの一部だから」
 スミは、見たこともない程に動揺している。
 しかし、彼が行った行動は・・・コーヒーを淹れることだった。
 蝶の形のドリッパーから古いフィルターを外して新しい物を挿す。
 コーヒー粉を入れる。
 猫のケトルからお湯を注ぐ。
 そしてサイフォンに闇よりも黒い液体が溜まるのを待つ。
 それだけだ。
 いや、違う。
 それしか出来ないのだ。
 肉体を流れる赤血球が身体を巡って酸素と栄養を送り届けることしか出来ないように、彼もまたどんなに心を取り乱しても、湧き上がる知りもしなかった記憶に苛まれても、それしか出来ない。

 今の彼は、平坂のカフェの一部だから。

 カナは、そんな愛しい人の様子を憐憫のこもった目で見た。
 黒と白の目がゆっくりと閉じる。
 そしてカナは、再び話し出した。
「一度目のカフェの来訪から戻ってから私は探した。貴方を取り戻す方法を」

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