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【再掲】冷たい男 第4話 束の間の死

"冷たい男"と彼は町の人達から呼ばれていた。

 親しみを込めて。

 彼は、生まれ落ちた時から身体が冷たかった。

 触れた相手を凍えこごえさせてしまうほどに。

 その手に触れられると骨の芯まで身体が震え、長く触れると皮膚が凍てついてしまう。

 食べ物を口の中に入れるとその途端に冷凍し固まってしまう。

 生まれてすぐに助産師を凍えさせてしまった彼を当然、病院は精密検査したが体温が異常に冷たい以外の異常はなく、検査の結果、"正常"と判断された。

 彼は、体温が凍えるほどに低いだけのただの人間であると医学が証明した。

 体温が異常に低いだけの普通の男の子として普通の生活を送っていった。

 普通の小学校に通い、友達と遊び、町内会のお祭りや運動会と言ったイベントに参加し、順風満帆とは言えないまでも平穏な生活を送っていた。
 そして現在、彼は葬儀会社で働いていた。

「父に束の間の死を与えてください」

 霊安室に入るや老婆は、冷たい男に懇願した。

 老婆は、ひどく草臥れてくたびれていた。
 どんなに優しい表現を探しても当てはまるものがこれしかないほどに彼女は草臥れて、そして疲れていた。
 雨も降っていないのにじとっと濡れた長い白髪、窪んだ目、年輪の刻まれた浅黒い肌、枯れ木のように細く、血管の浮き出た手足。
 しかし、着ているものはとても上等なものだ。
 薄紫のとても丁寧に糸を紡いで作られた着物。腰に締められた帯も浅葱色の上等なものだ。そして着物の足元には墨で描かれたのではないかと勘違いを起こすような見事な彼岸花が描かれていた。
 その全ての印象が老婆を三途の川の番人とされる脱衣婆を連想させた。
「死・・・ですか?」
 彼は、掠れるような小さな声で言う。
 この空間で1番使われてきた言葉を。
 この空間に置いてこの言葉は決して忌なる言葉ではない。むしろこの世での苦行を終えて次の世界へ旅立つ為の新たなステップとなる前向きな言葉として使われる。
 しかし、今、彼が口にした死と言う言葉は、文字通りの忌なる意味を成してしまっていた。
 老婆は、頷く。
 そして窪んだ目を開いて彼を、冷たい男を凝視する。
「はいっどうぞ父に束の間の死を。貴方なら出来るのでしょう?父に束の間の死を与えることが」
 そのあまりに強く、暗い眼差しに彼は、思わず目を逸らし、祭壇の前に横たわる遺体を見た。

 その遺体は、あまりにも痛々しく、そして若々しかった。

 顔は、内出血により真っ青に染まり、額だけでなく、頬にも顎にも瘤と裂傷が存在している。恐らく目視出来ない身体の部分にも無数の痣や裂傷が存在するのだろう。
 仕事柄、様々なご遺体を見るがここまで酷い怪我を残したまま運ばれてきたのは初めてだ。血を流した跡がないのが逆に気持ち悪い。
 しかし、もっとも異様なのは怪我以前に身体的特徴だ。
 遺体は、あまりにも若かった。
 二十代といっても差し支えない。
 痣と怪我のせいでほとんど見えなくなっているが僅かに残った肌にはまだ艶が残っていた。髪も黒く、今は強付いているが恐らくストレートで長毛の猫ようにさらっとしてきたことだろう。
 少なくともこの老婆の父親と言うにはあまりにも若すぎる。
 しかし、痣と裂傷だらけのその顔はどことなく老婆の面影を残していた。
 老婆は、三度言う。

「どうか父に束の間の死を」

 冷たい男は、半日前のことを思い出す。
 香り屋の女主人から頼まれた依頼を。

「今日の夜に1組の親子がそちらに行くわ」
 香り屋の女主人は、注文を受けた品の確認をしている冷たい男の背中に向かって声を掛けた。
 香り屋は、町の少し外れで経営している小さな洋風の古い館の一階にあるお店だ。香水やアロマキャンドル、石鹸やポプリ、お茶やコーヒーといった香りの強い嗜好品を多数取り扱っている。

 全て女主人の手作りだ。

 店の中も田舎の小さな町とは思えない程に洒落た作りをしており、わざわざ街から若い女性が訪れて購入していく程だ。
 冷たい男の務める葬儀社も彼女の店に大量の線香とお茶を受注しており、月に1度、彼が受け取りに来ている。
 香り屋のお茶と線香の香りは悲しみ、時に傷ついた遺族や弔問客の心を優しく撫でるように癒し、故人の魂を天に運ぶ手助けをするかのように竜のように滑らかに煙が登っていく。
 初めて葬儀場に訪れた遺族は、当然に家族を失った大きな悲しみに打ちひしがれている。式の打ち合わせの時も中々に喋ることが出来ないことが多い。そんな時にこの店のお茶を出し、線香を炊くと心が洗われたように目を開き、少しずつだが話してくれるようになる。そして帰る頃にはスッキリとした、前を向けた表情をしている。
 そんな葬儀会社に夜に来る来客と言ったら目的は一つしか考えられない。
「今日は、葬儀の予約も打ち合わせの予約も入ってないですが・・・」
 毎朝、出勤するとアポイントを確認するのも彼の役目だ。葬儀会社に基本、休みはない。連絡だって昼のうちにあるとは限らない。夜に連絡が入り、ご遺体を引き取りに行くことだって珍しいことではない。
 むしろよくある事なのだ。
 そんな日々、忙しい葬儀会社だが今日に限っては葬儀の予定も打ち合わせの予定も、ご遺体を預かる予定も入っていなかったはずだ。
「ついさっき連絡したのよ。彼女のパパにね」
 香り屋の女主人は楽しそうに笑い、切長の青い目を細める。白みがかった金髪に整った鼻梁、ゆったりとした黒のワンピースを着ている。どこかの国のハーフということだが詳しく聞いたことはない。年齢も50代半ばか後半のはずだが溌剌として若々しい。
「あのパパも変わらないわね。見かけからは想像も出来ない」
 女主人は楽しそうに笑う。
 彼女のパパとは彼の務める葬儀会社の社長であり、幼馴染の少女のお父さんでもある。
 見かけは古い任侠映画の組長のようであるが外見からは想像が出来ないほどに優しくて面倒見が良くて涙脆くて、そして一人娘を溺愛している。
「社長とはどこで面識が?」
「小学校のPTAで一緒だったのよ。同じ一人娘の親として話しがあったわ」
 女主人は、楽しそうに微笑む。
 女主人の娘は冷たい男の2個先輩に当たり、小学校だけでなく中学、高校と一緒で容姿端麗、文武両道の才女だ。高校時代は親衛隊みたいなものまで結成され、彼女と仲の良かった彼はよく絡まれていた。
 まあ、当の本人は自分に親衛隊が出来ていたことも知らないが・・・。
「そういえば今日、先輩は?」
 祭日だから大学と言うことはないだろう。この時期はイベントもないから小学校に実習で駆り出されていると言うこともないはずだ。
 彼の質問に女主人は小さく嘆息して、細く白い人差し指を天井に向けたかと思うと両手を合わせてその上に頬を置く。
 それだけで何をしているのかが分かった。
「いい人いたら紹介してあげて」
 母としての切実な願いに彼は、小さく頷くことしか出来なかった。
 彼は、脱線した話しを戻す。
「それでは急に亡くなられたということなんですね」
 そうなると昨晩かそれこそ今しがたなのか・・。
 しかし、女主人は彼の質問に対し下唇を持ち上げて少し困ったように頬を掻いた。
「10日前よ」
「ふへっ?」
 彼は、女主人の言葉が頭に入ってくるのを拒むかのように変声を上げた。
 いや、入ってきたとしても理解出来るものではない。
「だから10日前よ。彼が起き上がらなくなって」
「いや、ちょっと待ってください!」
 彼は、思わず声を荒げる。
 彼が声を荒げるなんて滅多にあることではない。
 それこそ彼をよく知る少女や女主人の娘がいたら驚きに目を剥いたことだろう。
「ご遺体を10日間も放置していたってことですか⁉︎それって立派な死体遺棄罪ですよ!」
 彼は、半ば怒りを込めて叫ぶ。
 ご遺体を丁寧に管理し、無事に天国へと旅立てるのを手伝うことを生業としている人間としてそれは決して許されざること、許してはいけないことなのだ。
 しかし、女主人は冷たい男の腹から燃え上がる怒りに臆した様子もなく自分の両の手を重ねる。
「遺体じゃないのよ」
 女主人は、煙管の煙でも吐くようにゆっくりと息を吐きながら低い声で言う。

 空気が変わる。

 日常の延長のような和やかな空気から重くとろりとした冷たい空気へとなる。
 まるで異世界に紛れ込んでしまったのような変容に冷たい男と言われる彼の背筋が震える。
「死んではいる。でも遺体ではないの」
 まるで魔女の問いかけのような言葉に彼は小さく狼狽える。
 いや、まるでではない。

 これはまさに魔女の問いかけなのだ。

「貴方にお願いがあるの」
 女主人はゆっくりと立ち上がり冷たい男に近づく。
 ゆったりとした緩慢な動き、しかし、目を離すことが出来ない。
 女主人の顔が目の前に来る。
 青い瞳が冷たい男を映し出す。
「なん・・・でしょう?」
 女主人は右手を伸ばし、そっと彼の頬に触れる。
 彼女の手と頬の間に白い煙が上がり、霜が張っていく。
 彼は、慌てて離れようとするが女の子主人の目に囚われ動くことが出来なかった。
 女主人は、自分の手が凍りつくのを厭うことなく、言葉を告げる。
「彼に束の間の死を上げて」
 女主人から発せられる言葉はまるでお経のようだと彼は思った。理解出来ない言葉が幾つも飛んだと言うのに一つも聞き流すことが出来ない。染み込むもうに耳を通り抜け、脳に入り込む。
「貴方にしかそれは出来ないの」
 女主人は、魔女はゆっくりと、しかし揺るぐことを許さない口調で言う。
「オレしか・・出来ない?」
「そう。これは貴方しか出来ない。誰よりも冷たくて誰よりも優しい貴方しか」
「どう言う意味ですか?」
「直ぐに分かるわ」
 女主人は、そっと彼の頬から手を離す。
 頬に触れていた右手は白い霜が貼り、凍りついていた。
 しかし、女主人はそれを見ても瞬きの一つもせず左手の人差し指を立てて、凍りついた右手に触れると、右手は何事もなかったかのように元に戻った。
 溶けた様子もなければ跡もない。
 右手には、霜焼けすら出来ていない。

 魔女・・・。

 冷たい男の脳裏にその言葉が過ぎる。
「報酬は心配しないで。会社には相応の額が支払われるわ。それに今回は私からの依頼なので貴方の望むモノをしっかりと支払うわ」
 そう言って笑う彼女は、いつもの女主人であり、先輩の母親のものだった。
「よろしくね。冷たい男」

 会社に戻ると社長が慌てて彼に駆け寄ってくる。
 いつもは強面だが穏やかで人を安心させるような雰囲気を漂わせているのに今は顔の作りそのままに表情を強張こわばらせ、額にはうっすらと冷や汗が滲んでいる。
「今日の夜に一組の客が来るから対応して欲しい」
 社長の話しでは香り屋の女主人からの話しが終わった直後に依頼の電話が来たそうだ。

 直葬だが火葬は無し。
 葬儀もいらない。
 しかし、遺体を霊安室に運んで欲しい。

 代金は前払いで、しかも直送なのに一般葬の倍以上の額を前払いで既に指定口座に振り込んだと言う。
 社長は、電話を切って急いで口座を確認すると口の中から目が飛び出るような金額が通帳に表示されていたそうだ。
 社長は、直ぐに相手に電話し、そんなに貰えないと金を返そうとしたが、拒まれた。
 尚も食い下がろうとする社長に電話の相手はこう告げたらしい。

 冷たい男を今回の対応をお願いしたい、と。

「私も親父の代からこの仕事を手伝っているがこんな奇妙な依頼は初めてだ」
 社長がこんなにも緊張しているのを初めて見たような気がすると彼は思った。
 彼は、葬儀屋なんて仕事をしているが不思議な体験というのをこれまでしたことがない。可愛い一人娘の先輩の母が魔女であることは知ってるが気兼ねしたことは一度もない。むしろ同じ町で働く者として親近感が湧いてるくらいだ。
 そんな彼が感じているのだ。

 この依頼は怪しい、と。

「お願いしておいて何だが断ってもいいんだぞ」
「しかし、それでは会社の信頼が・・・」
 社長は、首を横に振る。
「仕事の一つや二つ断ったってうちの会社はびくともしない。金もいらん」
 そして真摯な目で彼を見る。
「そんなことより大切な社員に何かある方がよっぽど問題だ」
 彼の心に小さく温かい火が灯る。

 ああっ本当にこの人は素晴らしい人だ、と改めて思う。

 彼は、口元に小さく笑みを浮かべて首を横に振る。
「いえ、やらせてください。指名を受けるなんて社員として誉ですし、私も先輩のお母さんから直に頼まれたので・・」
「そうか・・・くれぐれも気をつけてくれよ」
「はいっ」
 彼は、そう言って微笑んだ。

 そして時刻は、現在に戻る。

 彼は、霊安室の隅にある椅子に老婆を座らせると今日仕入れたばかりの緑茶を淹れて渡す。
 翡翠のように澄んだ緑茶からカモミールのような甘く温かい香りが溢れ、頭の中に白い花畑を想像された。
 老婆は、受け取った温かいお茶をじっと見つめる。
 彼は、遺体の奥にある祭壇に水の入ったコップを置き、線香に火を付ける。

 白い煙がゆっくりと立ち昇り、霊安室の中を蛇のようにぬるりっと漂う。

 よく見ると白い煙の中に青や緑、紫の埃のように小さい粒が浮かんでいるのが見える。粒は煙に乗って小さく弾けると、木々や花、そして水の香りが広がっていく。
 それは殺伐とした重い空間を少しでも和らげてくれるかのようだった。
 彼は、遺体の男性に白い布を掛けようとして改めてその顔を見る。
 ひどい傷だ。
 痣に裂傷、擦過傷、鼻骨は曲がっていて、眼底も凹んでいる。頬骨も折れていることだろう。
 何をどのようにすればこれだけの傷が出来るのであろうか?
 交通事故?
 飛び降り自殺?
 それとも暴漢?

 だが、何よりも驚くのはこの男性の若さだ。

 隅の椅子に座って緑茶をじっと見つめる老婆は男性を父と言った。
 どう見積もっても80は超えているだろう老婆が男性を父と言った。
 普通なら悪い冗談だ、と一笑に伏されるだろう。
 しかし、普通ならと割り切るには彼は様々な経験をし過ぎていた。
「貴方は、笑わないのね」
 老婆が小さな声で言う。
 彼は、顔を上げる。
 老婆の顔は、緑茶と線香の香りのお陰かここにきた頃よりも幾分和らいだように見える。
 しかし、それでも草臥くたびれた印象は変わらない。
 目は窪み、頬は痩せこけ、顔色も浅暗く良くない。髪も脂でベタついている。下手に身に纏う着物が上等なものなだけにその異質さは際立っていた。
「私とその人が親子だと言うとね。皆んな笑うのよ。ご冗談をって」
 老婆は、そっと隣の椅子に湯呑みを置くと立ち上がってこちらに近づいてくる。
 その歩き方は、とても静かで品があった。
「私に結婚歴がないことは皆んな知ってたから燕を囲ってるとでも思っていたのでしょうね」
 老婆は、遺体の前に立つと男の髪を優しく撫でる。
「でも、貴方は違うわ。貴方は全てではないけど私の言うことを疑いはしなかった」
「分かるのですか?」
「長く生きるとね。肉体の感覚は鈍るけどその他の部分は鋭くなるのよ。私のような凡人でもね」
 そう言って小さく笑う。
「私も凡人ですよ。ただ普通の人よりも変わった経験をしてるだけです」
「とても貴重なことよ。何よりも財産になるわ。大切なさい」
「はいっ」
 彼は、真摯に頷き、そして改めて老婆に向き直る。
「それではもう一度お伺いしますが、"束の間の死"とは一体どう言う意味なのでしょうか?」
 彼の問いに老婆は、遺体の髪の毛を撫でるのを止める。
 そして顔を上げて冷たい男に目を向ける。
 その目に浮かんでいたのは憂い、悲しみ、そして僅かな希望・・・。
「その言葉通りよ。貴方の力で父に少しの時間でもいい。死を与えて欲しいの」
「死・・・」
 彼は、小さく呟き、傷だらけの遺体を見る。
「もう死んでるのではないのですか?」
 彼の問いに老婆は、首を横にする。
「彼は、死なない。いや、死ねないの。死ぬために必要な寿命を全て私にくれたから」

「私が父から寿命を貰ったのは7歳の時よ」
 老婆は、椅子に戻ると冷めた緑茶に口を付ける。
 淹れ直すか、と冷たい男が聞くと首を小さく横に振る。
 彼は、短くなってしまった線香の隣に新しいものを差すと老婆の横にやってきて前に両手を組んで立つ。
「どうぞ座って」
 老婆は、隣の席に右手を置いて促す。
 彼は、「大丈夫です」老婆の申し出を断るが「見上げてると首が痛くなっちゃうの」と言われ、小さく頭を下げて老婆の隣に座る。
 老婆は、口を付けた湯呑みを反対側の椅子に置いて、冷たい男の顔をじっと見る。
「若いのね。お幾つかしら?」
「19です」
「まあ、それじゃあ高校を卒業して直ぐにこちらに就職を?」
「はいっこの会社の社長の娘が私の幼馴染で卒業したらここで働いたらいいと誘われたんです」
「失礼だけど大学か専門学校に行こうとは思わなかったの?」
 老婆の問いに冷たい男は、少し声を詰まらせる。
 痛いところをつかれたかのように頬を少し引き攣らせ、指で掻く。
「親や幼馴染にも言われたのですが・・・」
 言いにくそうに何度か唾を飲み込む。
「上の学校を目指すとなるとどうしてもこの町から出ないといけないので・・・」
 冷たい男の答えの意味が分からず、老婆は眉根を寄せる。
「この町を離れたくなかったから?」
「はいっ」
 小さい声で返事し、頷く。
 老婆は、小さく目を何度か瞬かせた後、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「それは幼馴染の娘と離れたくなかったからかしら?」
「ふえ?」
 冷たい男は、思わず間の抜けた声を上げる。
 老婆は、そんな冷たい男の反応を楽しげに見る。
「さっきも言ったでしょ。長く生きると肉体以外の部分が鋭くなるって」
 老婆は、狼狽える冷たい男を横目に残った緑茶を飲み干し、天井を見上げ、視線を動かす。
 まるでそこに書かれている何かを読み取るように。
「私も離れることが出来なかったわ・・・父と」
 老婆は、小さく、長く息を吐く。
「父はね。男で1つで私を育ててくれたの」
 老婆は、語り出す。
 昔の話しを。

 それは様々な不思議な経験をしてきた冷たい男でも耳を疑う者だった。

 老婆が物心が着いた時には戦争は日常的なものだった。
 時代は困窮し、食べる物、武器に加工できる物、価値のある物は全て取られ、町を歩けば誰も彼もが戦争の話しをし、近くの家からは家族を戦争に送り出すのは末代までの誉と泣き叫び、畑で野菜を育てれば盗まれ、家畜を育てれば殺され、食われる、そんな時代だった。
 しかし、それでも幼い老婆は幸せだった。
 なぜなら父がいつも側にいてくれたからだ。

 老婆とその父が生活していたのは小さな漁港の町だった。東京や横浜のような格式ばった港があるわけではない、小さな波止場に木製の三人でも乗れば沈みそうな船が数えるだけで疲れるくらい狭ぜまと並べられた田舎の漁港。家だってトタン屋根の長屋が並んでいるだけの時代錯誤甚だしい古い町。
 老婆の父は、そこで漁師をしながら幼い老婆を育てていた。
 母親は、いなかった。
 死別したのか?離別したのか?それともこの貧乏な生活が嫌になり逃げ出したのかは分からないし、教えてくれなかった。しかし、幼い老婆はその事を気にしたことはなかった。戦争と同じで母親がいない事も物心ついた時から当然のことだったし、その事に後ろめたさもなければ後ろ指を刺されることもなかった。
 父は、腕の良い漁師だった。
 一度、海に出れば必ず何かしらの成果を望めるほどに。
 その日獲れた魚を町に売り、残った魚を干物にして我が家で食べた。世が困窮している中で魚が食べれるなんて至高の贅沢だった。米も野菜も卵も中々に口に出来なかったが飢えだけは知ることはなかった。
 幼い老婆は、家のことを良く手伝った。4歳で火を起こし、井戸から水を汲み、掃除をし、父と魚を売りながら計算を覚えた。
 近所からはよく出来た子だ、と褒められた。
 父もそんな幼い老婆を褒め称えた。
 世の情勢など知らない狭い漁港町が全ての幼い老婆は貧しくても幸せだった。
 その幸せはいつまでも続くと思われた。

 あの日が来るまでは。

 それは唐突にやってきた。
 いや、どんな悲劇もやってくる時はどんなに冴えた感でも反応が出来ないくらいに唐突なのだ。

 幼い老婆と父の住む漁港町に爆弾が落とされた。

 明け方と共に海の向こうから空を切り裂くような轟音と共にやってきた朝焼けの空を黒く染める爆撃機の群れ、その群れの一つから爆弾が落とされたのだ。

 こんな古臭い漁港町に戦略的価値など存在しない。
 誤作動して落とされたのか?
 目標の港と間違えて落とされたのか?
 或いは面白半分で落とされたのか?
 現在になってもそれは分からない。
 分かっていることはそのたった一つの爆弾で古臭い漁港町は壊滅し、多くの人が死に、そして幼い老婆が死んだということだけだった。

 老婆の話しに冷たい男は、瞳孔を大きく開く。
 その反応を老婆は、面白そうに見て着物の裾の中にある枯れ木のような両足をバタつかせる。
「足はあるから安心おし」
 心の中を読まれたことに気づいた冷たい男は、誤魔化すように後頭部を人差し指で掻く。
「その・・・・死んだと言うのは何かの比喩ですか?」
 そんな露骨な比喩など存在しないと分かっているのに思わず聞いてしまう。
 老婆もそれが分かってか、視線を手元に下ろし、そして上げる。
「言葉を通りさ。私は7歳の時に一度死んだの。そして生き返ったのさ。父の寿命を貰って」
 そう言って、祭壇の前に横たわる傷だらけの父に目をやる。
「私が死んだあの日、父は願ったのさ、よく分からない海の何かにね」

 幼い老婆が目を覚ますとそこは一面の焼けた砂浜だったという。
 黒く焼け焦げ、朝焼けに浮かぶ月の表面のように陥没した砂浜、燃え上がる古い家、充満する魚の生臭い臭いと共に黒い泥を連想させるような悪臭・・・それが人間の焼ける臭いだと知ったのは随分後になってからだ。
 呆然とする幼い老婆を優しい温もりが包み込む。
「良かった・・・良かった」
 父は、涙と嗚咽を漏らしながら幼い老婆を抱きしめた。
「父ちゃん?」
 何が起きたのかも分からず、整理できない頭の中で父の温もりを感じて安心したのを覚えている。
 幼い老婆は、大泣きして父の背中を抱きしめ返す。
 ぬるっとした感触に手が滑る。
 幼い老婆は、抱き締められた父の背中越しに自分の手を見る。
 幼い小さな手は真っ赤に染まっていた。
 幼い老婆は、絶叫する。
 父は、叫ぶ娘に驚いて手を離す。
 ようやく父の全身を見ることのできた幼い老婆は言葉を失う。
 父は血だらけで、そして傷だらけだった。
 顔には裂傷と火傷、そして痣で膨れ上がっていた。ちぎれ焦げた服の隙間からも火傷と裂傷、そして出欠しているのが見える。
 それはまるでここから数キロ離れたところにある古い寺で見た地獄の亡者そのものの姿であった。
 父は、幼い老婆が自分の姿を見て怯えていることに気づき、少しでも安心させるように笑う。
「大丈夫だ。痛いけど死ぬことはないから。死ぬ為の寿命は全部お前にあげたから。だから大丈夫だ」
「死ぬための・・・寿命?」
 幼い老婆は、そこでようやく自分の置かれている状態に気づく。
 焼けた砂浜、燃え上がる漁港町、死に絶える町の人々、そして焼けてボロボロになった服を着ながらも、血が流れた跡がありながらも無傷な自分。
 戦慄に震える幼い老婆を見て父は、涙を拭い、そして再び笑う。
「お前は一度死んだんだよ。そして俺の寿命を全部上げることで生き返ったんだ」
「寿命?」
 父の言ってる言葉の全てが分からない。
 父は、少し困った顔をしながら幼い老婆にも分かるように説明する。
「お前の失った寿命の変わりに俺の寿命を上げたんだよ。それでお前は生き返ったんだ」
 まるでコップに水を注ぎ込むかのように父は言う。
 そして次の言葉に幼い老婆は意識を失うほどの衝撃を受ける。

「父は、私に寿命を全て渡したことで死ぬことが出来なくなったのさ」

 父が幼い老婆を発見した時、幼い老婆は人間の姿をしてなかったと言う。
 しかし、父は一目でそれが幼い老婆と分かり、抱きかかえてこの世の全てを呪詛し、泣き叫んだ。

 俺たちが一体何をした!

 この小さな命を奪うことに何の意味がある!

 命を無残に奪って得たものに価値などない!

 俺は、お前たちを恨む!呪う!

 そしてどこまでも追ってお前たちを殺す!

 その言葉は、幼い老婆の命を奪った敵国に向けて放ったものなのか?

 勝てもしない戦争を起こした自国に向けて放ったものなのか?

 それとも守ってくれなかったら神や仏に向かって放ったものなのか?

 それは父にもよく分からなかった。

 ただ、叫ばずにはいられなかった。

 ただ、呪わずにはいられなかった。

 父は、何日も何日もその場で焼け焦げて見る影もなくなった幼い老婆を抱きしめ、歌うように呪詛を放った。

 そしてその呪詛は、深い海の奥の奥まで届いた。

 そして聞き届けられた。

 その海の何かに。

 父の前に現れた海の何かは、擦り切れた汚いと衣を纏った爺の姿をしていた。
 いつからその海の何かがいたのか、父には分からなかった。
 気がついたら呪詛を放つ父の前に立っていたと言う。
 父は、一目でそれが人間でないと分かった。
 その姿はただの汚らしい爺にしか見えない。しかし、全身からしたり落ちる水、口や耳から見え隠れする蛸の足のようなもの、そして白目のない紅のように赤黒く染まった目。
 それは人間と呼ぶにはあまりにも禍々しかった。
 海の何かは、赤い目でじっと父を見る。
「お前の歌、とても心地良かったぞ」
 歌?
 歌なんて歌っていない。
 父は、そう口にしようとしたが言葉が出ない。
 ただ、守るように焼け焦げた幼い老婆を抱きしめた。
「深い海の底で眠る我に取っては久々の娯楽であった。何か褒美をやりたい。何がよい?」
「ほ・・うび?」
 父は、喉を鳴らす。
「ああっ大概のことなら叶えてやろう」
 その言葉に父の目が大きく開く。
「この子を・・・」
 父は、海の何かに腕の中の幼い老婆を見せる。
「どうかこの子を生き返らせてくれ」
 父は、必死に、身体中の力をその言葉に乗せて言う。
 海の何かは、じっと焼け焦げた幼き老婆を見る。
「いいだろう」
 海の何かは、水を飲もうとでも言うように簡単に言った。
 父は、その言葉を理解することが出来なかった。
 期待しつつも心のどこかでそれは出来ないと言われると思っていたから。
 しかし、海の何かが発した言葉はまるで違った。
「本当ですか・・・」
 父は、涙を垂れ流し、震える声で言う。
「ああっ本当だ。お前の寿命をこの子に注げばこの子は生き返る」
「そんなことで?」
 父は、藁にも縋るように海の何かを見る。
「是非、お願いします。私の寿命なんてからっぽになってもいい。あっいや・・・」
 父は、言葉を渋る。
「どうした?」
「せめて1日分、いや1時間分だけ残してもらってもいいですか?この子に説明と別れを言いたい」
 父の言葉に海の何かは、首を傾げる。
「どこかに行くつもりか?」
「いえ、この子の側にいます。ただ死ぬ前に一目この子の顔を見て・・・」
「死ぬ?」
 海の何かは、さらに首を傾げる。
 傾げ過ぎて耳の穴から蛸の足が溢れる。
「寿命がないのに死ぬはずがないだろう?」
「えっ?」
「寿命が無くなれば死ぬことも年を取ることも無くなる」
 当然のように海の何かは言う。
 父は、呆然とする。
 死なない?
 年を取らない?
「それでは・・・」
 父は、唾を飲み込む。
「俺は、ずっとこの子の側にいられるのですか?」
「好きなだけいればいい」
 父の顔は、歓喜に震えた。
「それでは寿命をお前の娘にやろう」
 海の何かの口から蛸の足が現れ、父に向かって伸びる。
 蛸の足は、父の口の中に入り込み、胃の腑まで落ち、掻き回す。
 父は、何度も呻き、嗚咽する。
 蛸の足が父の口から抜ける。
 その足に巻き付いていたのは青白い炎のような何か。
 海の何かは、青白い炎を確認すると焼け焦げた幼い老婆の僅かに残った口の中に放り込む。
 その瞬間、黒い焦げが剥がれ、生まれたばかりのように輝く幼い老婆が現れる。
 父は、歓喜し、幼い老婆を抱きしめる。
「達者でな」
 海の何かは、それの言葉を残し、いつの間にか消えていた。
 そして幼い老婆は目を覚ます。
 父から説明を受けると2人は町の火を消し、かつて町の人々だった遺体を丁寧に埋葬した。
 2人は、そのまま町を出た。
 この町にいても何も出来ないから。
 その1週間後に戦争は終わる。
 父と幼い老婆は、漁港の町から数十キロ離れた町で暮らし始めた。
 そして父の身体に起きた異変に気づいた。

「父は、確かに死ななくなった。年を取らなくなった。そして怪我も治らなくなったの」

 父の傷は、一向に治る気配はなかった。
 顔に出来た痣も裂傷も塞がることなく、出血も止まらない。そして痛みもまるで変わらないと言っていた。
 幼い老婆は、父を医者に連れて行くも「それは酷いなあ」と軟膏を塗られ、包帯を巻かれ「その内治るよ」と言われら高い金を取られるだけだった。
 しかし、父の傷は良くなることはなかった。
 現在でも・・・。

 冷たい男は、驚愕して横たわる父を見る。
「この傷って・・まさか」
「戦争の時のものよ。その頃から1ミリも治ってないわ」
 老婆は、苦痛に顔を歪め、目を閉じる。
「父は、私の前では絶対に痛いとは言わなかった。わそれどころか笑いながらお前をもう大丈夫と言っていいた。そして働かないといけないから、と血の流れる傷を泥で固めて塞いでバレないように厚着をして仕事に行った」
 老婆、着物の裾を握り締める。
「父は、私を育てる為に懸命に働いたわ。あの爆撃によって自分の船を失ったから海に出ることは出来なくなったから他の漁船に乗せて雇われ漁師として海に出たの。幸い誰も父の傷のことに触れることはなかった。あの時代、決して癒えない傷を抱えているのは父だけではなかった。身体にしろ心にしろ誰もが傷を抱えていた。そんなだから漁師仲間や近所の人はよく食べ物や着る物なんかを分けてくれたし、父が漁に出ている間は私の面倒なんかも見てくれた。戦後だと言うのに贅沢なくらい平穏な生活だったと思う」
 冷たい男の頬が少し緩む。
「いい人たちに恵まれたんですね」
「ええっ本当に。私の人生において戦争を起こした人間以上に悪い人はいなかったわ」
 老婆の口からさらりと出た重すぎる言葉に冷たい男は、喉を詰まらす。
「私は、近所の人に面倒を見てもらってる時も学校に言ってる時も気がついたら海を見ていた。父が無事に帰ってくるのを祈っていた」
「そうですよね。海に出てもし何かあったら・・」
 しかし、老婆は首を横に振る。
「そうじゃないわ。父が死ぬことなんて考えたことはない。父には死ぬ為の寿命がないのだから決して死なない。私が心配していたのは父が怪我をしてくること。父の傷は決して治らないのだから」

 父の傷は古かろうが新しかろうが決して治ることはなかった。包丁で皮膚を薄く切って血が滲まめばその血はずっと滲め出て、瘤が出来ればずっと膨らんで熱を持ったまま。もし骨なんて折ろうとのなら一生痛くて動かすことができないだろう。
 だから幼い老婆は家での危険なことは全て自分がやった。料理だろうが洗濯だろうが重いものを運ぶだろうが全てやった。父は手伝おうしたが全て拒否した。
 これ以上、自分の為に父にはいらない痛みを背負って欲しくなかったから。
 側から見ると父は働きはするねど幼い娘をこき使う非道な父親に映ったことだろう。だからこそ近所の人や漁師仲間も必要以上にこの親子の面倒を見てくれたのだろうと思う。

 本当のことなど誰にも話せないし、分かっても貰えないだろうから。

 しかし、そんな幼い老婆の苦労も虚しく父は傷を負った。

 漁で網を引けば手の皮が破れる。
 虫に刺されれば掻き傷が出来る。
 喧嘩に巻き込まれて痣が出来る。

 人が傷を負わないなんて不可能なのだ。

 傷を負う度に父は身を縮めて疼くまり、固いものを飲み込むように生唾を飲んで堪えた。
 決して苦鳴を上げることなく、幼い老婆に大丈夫だと笑いかけ、頭を撫でた。

 大丈夫なわけがない!

 幼い老婆は、叫びたかったが出来なかった。
 それをしたら父の思いを傷つけるから。
 肉体以外の傷を父に負わせたくない。
 だから老婆も良かったと言って笑った。

 そして年月が経ち、老婆は幼女から少女に、そして女性へと成長した。
 父は、全く老けなかったが顔の傷のせいで誰もその事を気にしなかった。
 そして老婆が二十歳を過ぎた頃、事件が起きる。

 父が海難事故に巻き込まれたのだ。

 それは決して嵐など来ない晴天の中で起きた。
 他所の国から紛れ込んできた漁船と衝突したのだ。
 父が乗っていた船は最新型とは程遠い木造のボロい船だったので何かの衝撃を受ければま壊れること必然だった。
 海に投げ出された父は、破壊された船の破片にその身を打ちつけ、内臓の一部が破れ、手や足、肋など数箇所が折れていた。
 家に運ばれてきた時はまさに瀕死という状態だった。
「恐らく今晩持たないだろう」
 父に付き添ってくれた漁港組合の医師は痛みに耐えるように若い老婆に告げる。
 一緒に漁に出ていた漁師たちが若い老婆に必死に頭を下げ「すまねえ」「すまねえ」と謝る。
 皆んなこの2人が天外。親1人子1人しかいない事を知っている。
 だからこそ憐れみ、同情した。
 しかし、若い老婆が考えていたのはそんなことではない。

 父は、瀕死なんかじゃない。

 父は、永遠に死なない。

 つまり父は、ずっとこの痛みと苦しみの中に生きないといけないのだ。

 そして父は、やはり死ななかった。

 3日経とうが1週間経とうが死ななかった。

 六畳の畳を血で染めようと死ななかった。

 あれだけ漏らすことのなかった苦鳴を町中に響き渡る程上げようと死ななかった。

 若い老婆は、そんな父を見ても何もしてやることが出来ず血で染まった部屋の隅で震えることしか出来なかった。

 異常な状態に気づいた医師がこれで楽にしてやろうと禁制の毒薬を持ってきた。しかし、若い老婆は受け取らなかった。
 父が死ぬのが嫌だったからではない。
 父をさらに苦しませる可能性のあるものを飲ませたくなかったからだ。

 そして父が苦しみ出してから1ヶ月が過ぎようとしていた。

「ごめんください」

 その女は、唐突に、ノックもせずに若い老婆と父の家に入ってきた。

 糸のように浅い眠りに誘われかけていた若い老婆はその音に目を覚ます。
 最後に寝たのはいつだろう?
 夢なのか現つなのかももう分からなくなっていた。
 父の呻き声と血の臭いだけが今は現実だと教えてくれる。
 女は、部屋に入った瞬間に顔を顰める。
 無理もない、こんな腐った血の臭いの中にいたら瞬きする間に吐いてしまう。

 しかし、予想外なことが起きた。

 女は、顔を顰めつつも平然と血に濡れた畳の上に立ち、滑るように父に近づいていくのだ。
 若い老婆は、呆然とそれを見つつ、ようやく女の姿を観察した。
 女は、日本人ではなかった。
 星屑が落ちてきて染まったような金と銀の入り混じった髪、整った鼻梁に細い顎、綺麗な形の唇、そして日に当たったら透けるような白い肌が身に纏った大きな黒い長衣ローブのお陰でさらに際立っている。
 そして最も特徴的なのは切長の青い目だ。
 猛禽類のように強く、冷たく、そして美しい。
 間違いようのない外国人だ。
 若い老婆の胃の腑が冷たくなる。
 外国人・・・自分を殺し、父をこんなにした外国人。
 女は、青い目で呻き、苦しむ父を見下ろすと長衣ローブが血で汚れるのも厭わずにその場で座り、父の傷だらけの頬を触る。

 胃の腑が熱くなる。

 触るな・・・触るな・・。

 汚い手で父に・・・。

「触るなあ!」
 若い老婆が怒りに目を激らせ、女に襲い掛かろうと身体を起こす、と。
 小さい影が若い老婆の前に立った。
 それは4歳くらいの幼い少女だった。
 太陽のような金髪の髪、白い肌、整った鼻梁、そして切長の青い目。衣服こそ黒い長衣ローブではなく水色のドレスだが父の頬に触れる女とそっくりだった。
 少女は、若い老婆の前に両手を大きく伸ばして立ちはだかる。
 切長の青い瞳を強く、大きく開いて若い老婆を捕らえる。
 若い老婆は、何故か動けなくなる。
「大丈夫」
 少女とは思えない強く、芯のある言葉が発せられる。
「ママを信じて」
 女は、切長の青い目で父を見ながら、頬を、瘤で塞がりかけた目を、そして口内を見た。
「・・・厄介なものと関わったものだな」
 女は、小さく息を吐く。
「娘」
 女は、短く、そして強く声を吐く。
 若い老婆は、その声が自分に掛けられていると気付かなかった。
「聞こえているか⁉︎」
 女は、声のトーンを変えずに再度呼びかける。
 そこでようやく若い老婆は自分のことであると気づいた。
「はい・・・」
 若い老婆は、消え入りそうな声で返す。
 女は、若い老婆を見ないままに話し出す。
「お前たちが対価を払ったモノはとてもタチの悪い奴だ。私にはどうすることも出来ん」
 女の発する言葉の一句一句が重く若い老婆の耳に入ってくる。
 若い老婆は、胸を苦しく締め付けられる。
「しかし、痛みを和らげ、傷を塞いでやるぐらいなら出来るが、どうする」
「お願いします!」
 若い老婆は、反射される鏡のように間を空けることなく言葉を返した。
 それ以外の選択なんてなかった。
「分かった」
 女の右手にはいつの間にか火の付いた紫色の腕くらいの長さの蝋燭と、左手には肌色の糸玉が握られていた。
 女は、紫色の蝋燭を血に濡れた畳の上に置く。
 燭台もないと言うのに蝋燭は、少しもブレることなく直立する。

 香りが漂う。

 甘く、トロリとした重い花の香りが。

 変化は、直ぐに起きた。

 あれだけ痛みに呻いていた父の口から苦鳴が消えた。
 傷と痣だらけの頬が弛み、瘤でふさがりかけた目がうっすらと開く。

 女は、手首を返し、糸玉を上に向ける。

 糸玉の先の部分が持ち上がり、蛇の鎌首のように動く。

 糸は、父を標的として定めるとゆっくりとその身を伸ばしていく。
 父の顔にある最も酷い傷に触れ、その中に入り込んでいく。
 父の顔が一瞬、痛みに歪む。
 糸は、顔を出しては引っ込め、出しては引っ込めを繰り返しながら傷の中を進んでいく。
 そしていつの間にか大きく開いていた傷口は塞がれていた。
 糸は、自然と切れて二つに分かれる。
 一つはそのまま傷口に埋没し、残った方は新たな傷口を探し出す。
 それを何度も何度も繰り返す。

 そして女の手から糸玉が失われ、父の身体中の傷は全て縫われた。
 あれだけ広がっていた醜い傷は全て塞がり、瘤や痣や裂傷、鼻の骨折などは変わらないもののあるものの十分と見ることの出来るものになっていた。
 父は、寝息を立てていた。
 父が寝息を立てて寝たのはいつ以来だろう?
 少なくても若い老婆には記憶がなかった。
 女は、小さく息を吐く。
 額には大きな粒の汗が数えきれないほど浮かんでいる。
「娘・・」
「はいっ」
 思わず背筋を伸ばして返事をする。
「お前の父の傷口は全て塞いだ。痛みも蝋燭の香りで取り除いている」
 若い老婆は、畳の上で直立している蝋燭の小さな炎を見る。
「1年だ」
 女は、短く、はっきりと告げる。
「傷口を塞いだ糸は1年しか持たない。と、いうかそれ以上傷口を塞いでおくことが出来ない。痛みもだ。この蝋燭も1年で燃え尽きる」
「どうなるのですか?」
「元に戻る」
 それが意味することを理解するのはあまりにも簡単だった。
 若い老婆の身体が震える。
「ど・・・どうすれば・・・?」
 若い老婆は、藁にも縋るように女を見上げる。
 少女は、そんな若い老婆を労わるように肩に手を置く。
「魔女の報酬を払える?」
「魔女の報酬?」
「貴方たちが関わったものは本来、人が絶対に関わってはいけないもの。寿命の受け渡しなんて人外どころか天外してはならないこと。その代償はあまりにも大きい。私にはその代償を取り除くことは出来ない。だからせめて痛みと傷を塞いで上げることしか出来ないわ。しかも期間限定でね。それでも良いなら・・・」
「お願いします!」
 若い老婆は、迷うことなく言う。
「報酬がなんだか分からないけど必ず払います!だから父を助けてください!」
 若い老婆は、血まみれの畳に顔を埋めて土下座する。
「・・・分かったわ」
 女の手にはいつの間にか小さな瓶が握られていた。中世フランスの貴族が使っていたようなサファイア色の香水瓶だ。
 しかし、中身は空だ。
 女は、香水瓶の蓋を開ける。
 その瞬間、部屋中に侵食していた父の血が竜が立ち昇るように瓶の中に吸い込まれていく。
 一滴として残らず。
 若い老婆の顔と衣服に付いた物まで全て吸い込まれる。
 とても手のひらの大きさしかない小瓶ではない量の血が全て吸い込まれたのを確認してから女は瓶に蓋をする。
 女は、瓶の先端を持ち、目線の高さまで持ち上げて中身を確認する。
「寿命のない人間の血・・・今回の報酬に相応しい貴重なものよ」
 瓶は、いつの間にか女の手から消えていた。
 女は、若い老婆を見る。
「今回の報酬はこれで十分よ。今後の報酬はその時、私が望むものを持ってくることよ」
「その時望むもの?」
「そう。それは貴方の見たこともない大金かもしれないし、聞いたこともない、見たこともない品物かも知らないわ。でも、貴方はそれを必ず手に入れないといけないの」
「・・・手に入らなかったら?」
「お父様がまた苦しむことになるわ。私は何ももうしてあげられない。魔女に慈善事業は存在しないの」
 若い老婆は、血の臭いすらなくなった畳を爪で削る。
「分かりました。必ず貴方の望むものを手に入れます!」
 女は、若い老婆の隣に立つ少女を見る。
 少女は、小さな手をきゅっと握って開く、とそこから小さな紙が現れた。
 少女は、紙を若い老婆に渡す。
「私は、ここから少し離れた町で"香り屋"と言う店を経営してるわ。お父さんの蝋燭が尽きかけたらおいでなさい。報酬と引き換えに蝋燭と傷口を縫うわ」
 若い老婆は、店の名前と住所の書かれた紙を大切に握る。
 女は、口元に小さな笑みを浮かべる。
「貴方たちは運がいい。たまたま娘とこの町に遊びに来ていたら急に娘が嫌な気配を感じると言ってここまで連れてきたのよ」
 若い老婆は、小さな少女を見る。
 少女は、恥ずかしそうに目を反らす。
「この娘は、私よりも強く、優秀な魔女になるでしょう。私がいなくなってもこの娘が引き継ぐわ。報酬がある限り、貴方の父親の痛みと傷での苦しみを減らせるでしょう」
 若い老婆の目からいつの間にか涙が溢れ出す。
 もう父が苦しまない。
 それがどれだけ嬉しいこと、か。
 少女は、女に、母親に近寄ると長衣ローブの裾を握る。
「それではまた会いましょう」
 それだけ言い残し、魔女の親子は消えた。

「それから50年以上、穏やかな日々が続いたわ」
 この場所に来て老婆の口元に初めて小さな笑みが浮かんだ。
 冷たい男は、祭壇の前で横たわる父親を見る。
「その後、お父様は?」
「あの人が用意してくれた蝋燭と糸玉のお陰で今までの苦しみが嘘のように和らいだ生活を送れてたわ」
 痛みがなくなった父の顔に笑みが戻った。
 これまでも老婆を安心させるように笑みを浮かべてきたが何かに耐えるようで心の底からの笑みではなかった。
 食欲も戻り、とても美味しそうに食べた。
 本を読む余裕も出来た。
 そして何よりも心地よく眠ることが出来る様になった。
「それでも新しい傷が出来たらそれは塞がることはない。私は、父に仕事はしないようお願いした。その変わりに私が働くから、と。報酬も払わないといけないからね」
 当然、父は反対した。
 娘に養われるつもりはないし、自分がどうなろうがお前が気にかける必要はない、と。

「俺のことよりもお前はお前の幸せを考えろ!」

 父の気持ちは娘を思う親として当然の感情だ。
 何も間違えていない。
 しかし、父は間違っていた。
 父が苦しんで生きることに私の幸せはないのだから。

 老婆は、それから幾つも仕事を掛け持ってがむしゃらに働いた。
 これまでも高校までは何とか卒業してから少しでも父の助けになるようにずっと働いていたのだがこれからは父の分まで稼がねばならず、未知の魔女の報酬も払わなければならない。
 休んでいる暇などなかった。
 幸い父に似て働くことは好きだったので苦ではなかったが魔女の報酬を払わなければならない時だけはキツかったという。

「なんせ聞いたこともないような物を当然のように言ってくるからね」

 ここから南に海を渡った島の寺に納められた河童のミイラのヒレを取ってきて。

 50年に一度しか咲かないこの世でもっとも小さな蘭の蜜を取ってきて。

 幻の化け狸の作った料理を貰ってきて。

 大金を要求された方がよっぽど楽だとだったと言う。
 しかし、報酬を手に入れる為にも先立つものが必要だ。

 その時に生きたのがこの報酬を手に入れてくる経験だった。

「この報酬を得る過程をね。本にして見たのよ」
 彼は、訝しげな表情を浮かべる。
「本?」
「そう、"魔女からの手紙"って本聞いたことない?」
 知らないはずがない。
 世界的にも有名な児童書だ。
 海辺の街に住む少女がお父さんの病気を治す為に魔女からの依頼を受けて東へ西へと走り回る冒険譚。
 世界中にファンがいて本屋や図書館に必ず置いてあり、シリーズ発行部数は確か億を超えるのに今だ連載中と言う人気小説だ。
 少女が学校の図書館から毎日シリーズを借りて楽しそうに読んでいたのを今でも覚えている。
「ひょっとして・・・」
「そう、私の本よ。ただ、経験したことを書いただけなのに随分と人気が出て驚いたわ」
 老婆は、おかしそうに笑う。
「あの人も私の本を読んで『何が流行るかなんて魔女にも分からないものね』と笑ってたわ。娘さんも愛読書にしてると喜んでいたわ。父は読む度にこんな危険なことしてるのか、て青ざめてたけど」
 冷たい男は、唖然とした表情で話しを聞いていた。
「とにかくこれで資金も得ることが出来て報酬を見つける為の情報や手段を得やすくなった。代理を立てるのは契約違反になるから私が取りに行くんだけどそれも段々楽しくなってきてね」

 順風満帆だったと言う。

 父生活の心配もなく、思いもかけぬ栄光も手に入れ、家族を得ることはなかったが、何よりも穏やかな表情を浮かべ、痛みのない父と過ごすこと出来たのが嬉しかった。
 いつまでも年を取らない父を見て「愛人か?」「隠し子か?」と騒ぎ立てられることもあったが気にしなかった。
 父と一緒に平穏に暮らせる以上の幸せなのないのだから。

 しかし、幸せと語る老婆の顔は晴れない。
 時折、笑みは浮かべるものの曇天のように暗いままだ。

「でも、物語と一緒でね。どんな幸せも長く続かないの」

 それが起きたのは2週間前のことだった。

 小説が売れるようになってから老婆と父は生まれ育った土地へと戻った。
 家のあった土地は、国の所有地となっていた為、その近くの土地を買い、家を建てた。2人ぐらいなのでそんな大きな家はいらないので生活に困らない程度の規模のものを。
 編集者は、尋ねてくる度に「これが"魔女の手紙"の作者の家"?」と言った顔をするのが面白かった。
 しかし、海を見れば作品の創作意欲を生む為かと納得し、父を見れば愛人の巣かと陰口を叩かれた。
 父は、陰口を聞く度まで申し訳なさそうな顔をするがその度に「好きに言わせておけばいい」と笑った。
 父と過ごす日々は、とても穏やかで、そして心地良かった。
 あの地獄の日々を返却し、平穏を取り戻しているかのようだった。
 こんな日々がずっと続くと思っていた。
 しかし、平穏な日々とは突然に崩れるものなのだ。
 それも予想も立たないようなことで。
 その日は、季節外れの嵐だった。
 と、言っても嵐自体は驚くようなことではない。
 海の近くに住めば嵐の直撃なんて珍しいことでもない。窓を激しく揺らす風の音も、地面を痛めつける雨も、猛るように暴れる海も見慣れすぎて子どものはしゃぎ声のようにしか聞こえない。
 老婆と父は、魔女の家で買ったお茶を飲んでいた。
 父を救ってくれたあの人は20年前に引退し、どこかに旅立ち、今はあの小さかった娘が後を継いでいる。
 あの人曰わく、娘はとても優秀とのことだがお茶の味はあの人の方の上のように思う。

 突然、電球が切れた。

 電球だけではない。
 テレビも、エアコンも、お茶を入れ直そうと水を入れた電気ケトルの電源も落ちた。

 停電か、とその時も軽く考えていた。
 海辺に住めば珍しくない。
 その為に予備バッテリーを備えてある。
 何時もなら直ぐに切り替わるはずなのに切り替わらない。
 しかし、その時も私は深く考えないままに電気室を見てくると父に言って席を立った。
 父は、自分が行くと言ったがもし何かあったら嫌だとあの時の記憶が一瞬でも甦り、それを断って電気室へと向かった。
 しかし、今にして思えば父が見に行った方が良かったのかもしれない。
 老いて衰えた脳と目ではなく、寿命が無くなり、時の止まった父の方が遥かに物事を正しく見えたかもしれないから。
 電気室に着くと部屋は暗かった。
 やはりブレーカーか何かが落ちているようだ。
 何年か前にも同じことがあった。
 その時はブレーカーを弄ればそのまま復旧した。
 老婆は、記憶を辿り、暗闇の中を手探りしながらブレーカーの所まで歩く。
 そしてうっすらとブレーカーの影が見えたことにほっとし、それに手を伸ばす。
 その時、なぜ気づかなかったのだろう?
 うっすらと見えたのは配線が老朽化して飛び散った火花のせいだったと。
 老婆は、気づかぬままにブレーカーに触れようとする。
「危ない!」
 背後から父の声がした。
 父は、ブレーカーに手を伸ばした老婆の手を叩く。
 老婆は、そのまま尻餅をつく。
 バチッンと何かが破裂する音がした。
 大きな光が目を焼く。
 老婆は、反射的に目を覆う。
 目が眩み、頭が車酔いしたように回る。
 そして眩んだ目が落ち着き、目を開くと父が仰向けに倒れていた。
 電気が復旧する。
 電気室の床に倒れた父の目と鼻と耳、そして口から血が流れ出る。
「お父さん?」
 老婆は、父に寄ると身体を揺さぶって声を掛ける。
 父は、目を覚さない。
 口から大量の血を吐くだけだ。
 老婆は、絶叫し、何度も父に呼びかける。
 しかし、父が目を開けることはなかった。

「心臓が破裂したらしいわ」
 老婆は、口の中に溢れる唾液を飲み込む。
「あの人の娘に連絡すると見てもいないのに彼女は直ぐにそう答えた。医師や救急隊とかなら信用出来なかったけどあの人の娘が言うことは直ぐに信用出来た。その上で言ったの。どんな報酬でも払うから父を助けてほしい、と」

 しかし、あの人の娘、現香り屋の女の子主人はこう答えた。

「私の力ではもうどうにもならないわ」

 どれだけの糸を使っても破裂した心臓は戻せない。
 蝋燭を何本焚いても心臓の破裂した痛みは和らげることは出来ない。
 今は、農も焼かれているから意識はないだろう。しかし、いつか必ずし目覚め、父は苦しみに苦しみ抜くことになる。

 それが寿命がないということだから、と。

 老婆は、絶望に震えた。
 そして自分を責めた。
 あの時、自分が電気室にいかなければ、平穏に油断してなければこんなことにはならなかったのに!っと。

 悲しみに閉じこもろうとする報酬老婆に香り屋の女主人は言う。

「束の間の死を与えましょう」
 老婆は、女主人の言葉の意味が分からず反芻する。
「束の間の死?」
 電話越しに女主人が頷いたのが分かる。
「私には貴方のお父様を何とかすることは出来ない。しかし、束の間の死を与えてくれる、この世界を滅ぼそうとする山神を眠らせる事の出来る唯一の存在を知っている。彼ならお父様に束の間でも死を与えることが出来るでしょう」
 老婆は、二度反芻する。
「束の間の・・・死」

 そして老婆は、冷たい男の元に現れた。

 父に束の間の死を与えてもらう為に。

 そこまで話しを聞き終えて冷たい男は何故、老婆が自分の前に現れたのか、何故、香り屋の女主人が自分に依頼してきたのか、そして束の間の死とは何なのかを理解した。
 冷たい男は、手袋に包まれた自分の手を見る。
「・・・私は香り屋の女主人とは違って特別な力はありません。ただ、物を冷やしたり凍らせたりすることが出来るだけです」
「彼女からもそう聞いてるわ」
 老婆は、小さく頭を下げる。
「実際にどのくらいの期間凍った状態を保てるか分かりません。ご遺族には式が終わるまで綺麗に保つことが出来ると伝えてますが5日以上過ぎたことはありません。山神様も年に一度は氷を足しに行きます。永遠なんてありえません」
「それでもどんな冷却の機械よりも貴方の方が信頼出来ると言っていたわ。貴方の手は誰よりも冷たく、誰よりも優しいから、と」
 老婆は、小さく微笑む。
「貴方と話してみてね。思ったの。父を託すなら貴方が良いって。貴方は明らかに異様な客である私に丁寧に接してくれた。こんな婆さんの与太話を信じて最後まで口を挟まずに付き合ってくれた。そして父の傷のことを心から心配してくれた」
 老婆は、手袋に包まれた彼の手に触れる。
 彼は、反射的に手を避けようとしたが老婆にぎゅっと握られて動かすことが出来なかった。
「お願い。本当に束の間でいいの。決して父に訪れることのない死を与えて。父を苦しませず、安らかに眠らせてあげて」
 老婆の目から一つ、二つと雫が溢れ、着物を濡らす。
 彼は、老婆の涙が落ちたところをじっと見た。
 老婆に握られた手をそっと引き抜く。
 老婆の顔に失望が浮かぶ。
 冷たい男は、小さく微笑むとゆっくりと立ち上がり、横たわる父へと近づく。
 両手をそっと合わせて合掌する。
 時間としては精々10秒にも満たないのに、とても長く感じた。
 冷たい男は、合掌を解くと両の手の手袋を外す。
「・・・冷たいですよ」
 そう優しく横たわる父に話しかけると彼の両頬に自分の両手を重ねた。
 白い煙が噴き上げる。
 一瞬で父の顔が白くなり、髪の毛に、睫毛に霜が張る。
 目の前で起きた光景に老婆は目を大きく開き、立ち上がる。
 何時もなら5秒か10秒触ったら手を離す。
 それ以上、凍らせたことなんてない。
 しかし、今日は10秒過ぎても30秒過ぎても離さない。
 許される限り凍てつかせる。
 父の身体を覆う白い布が糊で固められたように固くなり、霊安室の中が極寒となる。
 老婆は、あまりの寒さに身体を震わせるも冷たい男から、父から目を離すことが出来ない。
 身体の中の水分が凍てつき、髪の毛は霜を超えて白く凍てつき、唇は青ざめ、肌には青い筋が浮かぶ。

 しかし、それだけだ。

 それ以上凍てつかない。

 それどころか・・・・。

 父の身体から雫が垂れる。

(溶けてる⁉︎)

 凍った先から溶けていっている。

 白く染まった髪が斑らに黒くなる。

 肌と唇に血色が戻り始める。

 瞼が震えるように動き、胸が上下に動き出す。

(目覚めようとしている⁉︎)

 その瞬間、父の目から、鼻から、耳から、そして口から赤い筋が流れ出る。
 指先が震え、腕が震え、全身が震え出す。
 そして断末魔の絶叫!

 父は、悶え、苦しまながら呪歌のように悲鳴を上げる。
 凍りつきかけた身体から熱を発し、肌が紅潮し、歯がガチガチと軋みませ、霜が溶けていく。

「お父さん!」
 老婆が悲鳴を上げる。
 その表情からは絶望が滲み出る。
 冷たい男は、頬を掴む手を強めるが全く凍らない。むしろ今まで感じたことのないものが手から脳へと昇ってくる。

 それは熱だ。

 触れているだけで激痛を伴う熱が冷たい男を襲う。

(呪いだ・・・)

 父を決して安らがせない為の呪い。

 人が対抗出来るものではない忌むべき呪い。

(どうすれば・・・)
 このまま掌で触れても意味はない。
 もっと強く冷却させるには・・・。
 その時、冷たい男の手にべたりと触れるものがあった。
 父の血だ。
 血が冷たい男の掌に触れて凍りつく。
 その瞬間、天啓が冷たい男に下りる。
 いや、これも天啓ではなく呪いか・・・。

 しかし、迷ってはいられない。

 彼は、父の両頬から掌を離した。
 老婆が驚き、目を見開く。
 恐らくどうにもならないと諦めたと思われたのだろう、顔が青ざめていく。
 しかし、冷たい男は諦めていなかった。
 冷たい男は黒いブレザーを脱ぎ、白いシャツの右腕の袖を捲る。
 そして剥き出しになった腕を父の口に近づけた。
 ガチガチと軋む父の歯が冷たい男の腕を噛み締める。
 冷たい男の口から声にならない悲鳴が漏れる。
 腕の皮膚が千切れ、赤い血が父の口の中に流れ込む。
 父の喉が鳴る。
 何度も何度もなって冷たい男の血を飲み込んでいく。
 黄鳥した赤い肌から白い煙が漏れる。
 溶けて濡れた髪が再び凍りついていく。
 流れ出た血が氷の筋へと変わる。

 父の体内へと飲み込まれた冷たい男の血が体内から凍てつかせているのだ。

 父の体内から軋むような、ひび割れるような音が聞こえる。
 身体の中の水分が凍結して言っているのだ。
 身体の震えが止まり、爪先が真っ白になる。
 冷たい男の腕を噛む口の周りに霜が張り、それが広がって凍結していく。
 顔を覆い、首筋に走り、全身を侵略していく。
 白い煙が吹き荒れる。
 霊安室の中を冷気が駆け巡る。
 そして父の身体は、完全に凍結した。
「おと・・・さん?」
 老婆は、身体を大きく震わせて涙する。
 冷たい男は、痙攣の止まった父の口から腕を捻りながらゆっくりと離す。
 右腕から血が飛び散り、床や壁を汚し、その周りを凍結させる。

 ナンダ・・・ツマラナイ・・・。

 突然、胃の腑の奥から不快な液が溢れるような気持ちの悪い声が聞こえた。
 冷たい男と老婆は、部屋の中を見回すも誰もいない。

 コノオトコ・・ノ・・クルシム・・スガ・・タヲ・・ミルノガ・・・タノ・・シミナノ・・二・・。

 声は、小さなため息を交えながら辿々しく話す。

 シバラク・・・オアズケカ・・・。

 そして声は消え去った。

「今のは⁉︎」
 老婆が恐怖に表情を強ばらせる。
「・・・恐らく貴方のお父さんから寿命を貴方に移したナニカでしょう」
 血の滴る右腕を押さえ、苦痛に表情を歪めたまま冷たい男は言う。
「お父さんが凍りついたのでがっかりしたと言ったところでしょうか・・・」
 冷たい男は、膝をついてうずくまる。
 老婆は、慌てて駆け寄るが冷たい男が来ないで!と制する。
「私の血は、唯一凍らない液体なんです。その変わり触れた周りのものを一瞬で凍らせます。手で触れるよりも遥かに凶悪に。間違って触ったら大変なことになります」
 冷たい男の腕から血が止まることなく滴り、血溜まりを作り、床を凍結させる。
「どのくらい持つのかわかりませんが・・・これでお父様が目覚めることはしばらくありません・・・・
束の間の死です」
 老婆は、その場に膝をつく。
 そして両手で顔を覆い、泣く。
「ありがとう・・・ありがとう」
 冷たい男は、血が抜けて白くなった顔に笑みを浮かべて笑う。
 そして問う。
「・・・これからどうするのですか?」
 確かに父は凍った。
 束の間の死を得た。
 しかし、それは本当に束の間なのだ。
 永遠ではない。
 いつかは目が覚めるのだ。
 老婆は、顔を覆っていた手を離し、涙を拭う。
「父の死が少しでも長引くように努力するわ。これからの私の余生はそのことだけに使う」
 そういって老婆は、笑う。
 それは本当の笑みだ、と冷たい男は思った。
 この場所に来て初めて見せた本当の笑み。
 老婆がこれから歩んでいくのは幸せなことなどない修羅の道だと言うのに・・・。

 なんて強い人だ・・・。

 冷たい男は、老婆をそしてら束の間の死を得たこの人の父親を送り出すように目を閉じる。
「どうぞ・・・束の間でも安らかな死を」
 そしてそのまま意識を喪失する。

 少女は、怒っていた。
 小さなほっぺたを餡子ぎっしりのあんまんを口一杯に頬張ったように膨らませて怒っていることをPRしていた。
 ベッドから身体を起こした冷たい男は、困ったように苦笑いを浮かべて右手で頬を掻く。
 その腕にはがっちりと包帯が巻かれていた。

 大量の失血で意識を失った冷たい男は、気がついたら病院のベッドの上にいた。
 社長から連絡をもらって駆けつけた両親の話しによるともう少し出血していたら生命に関わっていたらしい。
 何があったのかと両親と社長から問いただされるもまさか寿命のなくなった男の口に腕を突っ込んだなんて言えないので「躓いて祭壇の角に腕をぶつけました」と弱々しい答えを返した。両親も社長も訝しげであった、特に社長はあの客の件でだろうと察しがついたようだが、正直者の冷たい男が誤魔化すのだからよっぽどのことなのだろうとそれ以上聞かなかった。

 しかし、少女は違った。

 青ざめた表情で病院に駆けつけるや否や医師や看護師に詰め寄って容態を確認し、命に別状はないと確認するとほっと胸を撫で下ろす。そして次の瞬間、鬼と間違えるほどの怒りの形相で冷たい男に向かい、「何があった!」と問いただしてきた。
 少女に嘘は付けない冷たい男はあったこと正直に話した。
 そして現在に至る。

「・・・あの2人はいなかったんでしょう?」
 冷たい男が尋ねると少女は自分のスマホを弄り、ネットニュースを開いてそれを彼に見せた。

"魔女の手紙の作者、謎の失踪!関係者も行方を知らず。刑事事件として捜査か?"

 冷たい男は、治療された右腕を触る。
 少女は、眉根を寄せる。
「どこに消えちゃったんだろうね?」
「2人で静かに過ごせる場所だよ」
 きっとどこかの海の見える場所で2人はきっと穏やかに過ごしているのだ。
 凍りついて束の間の死を得た父。
 父からもらった寿命を使って懸命に生きる老婆。

 どんなに短い時間でもいい。

 2人に心からの安寧をと冷たい男は願った。

「ところで・・・」
「んっ?」
 少女は、先程とは打って変わって恥ずかしそうにモジモジしだす。
「お腹すいてない?」
「そういえば・・・」
 冷たい男は、自分の腹を摩る。
 治療を終えてから何も食べてないことに気付いた。
 少女は、小さな保冷バックをベッドのサイドテーブルの上に置き、チャックを開けて中身を取り出す。

 冷たい男の目が大きく見開く。
 出てきたのは貴婦人の髪のよう櫛で揃えられたように柔らかく、滑らかに、そして可愛わしくまあるく茶色のクリームを盛られたモンブランケーキだった。
 冷たい男は、驚いて目を丸くする。
 少女は、恥ずかしそうに頬を赤く染める。
「昨日の夜に先輩のお母さんに呼ばれて一緒に作ったの。貴方でも食べることの出来るケーキだって」
 確かにケーキは、自分が食べることのできない数多い料理の一つだ。
 温めることが出来ないから口に入れるとその瞬間に石のように凍ってしまう。

 高嶺の花の料理・・・。

 少女は、折り畳まれたオレンジの紙を彼に差し出す。
「先輩のお母さんから」
 冷たい男は、紙を手に取る。
 ほのかに金木犀の香りがする。
 冷たい男は、紙を開く。
 とても丁寧な文字が並んでいる。

"お願いを聞いてくれてありがとう。
 ささやかだけど今回の報酬よ。
 貴重な栗と隠し味に特別な柿を使って作ってるから味も良いし、傷の治りも良くなるわ。
 最初は、私だけで作るつもりだったけどあの子に作ってもらった方が貴方に見合った報酬になるでしょう?
 レシピも教えておいたからいつでも食べれるわよ。
 今回はありがとう。
 お大事にね"

 読み終えると冷たい男は、包帯の巻かれた自分の手を見る。
 医者の話しによると治療をしようとした時には出血は止まっており、傷口も既に縫われた状態であったと言う。
 つまり救急隊が来る前に自分の傷を応急ではあるが治療し、あの2人をどこかに連れていった存在がいると言うことだ。
 楽しそうに、少し揶揄からかうような笑みを浮かべる香り屋の女主人の顔が浮かび、冷たい男は、苦笑いする。

 つまり全ては彼女の絵図のままと言うことか・・。

 海の何かという奴よりもよっぽど曲者だと思った。

 そんな冷たい男の様子を勘違いしたのか少女は不安そうに上目遣いで見る。
「モンブラン・・嫌だった?」
 不安げに目を揺らして問うてくる少女は何よりも可愛らしく胸が大きく高鳴った。
「そんなことないよ。頂きます!」
 冷たい男は、フォークを取るがその際に腕を捻った為、傷口が引き攣り痛みが走り、顔を歪める。
 それに気づいた少女が彼の手からフォークを抜き取ると綺麗にモンブランのクリームを掬い、冷たい男の口元に持っていく。
「あーん」
 自分も口を一緒に開けて言う。
 冷たい男は、少し照れ臭そうにしながら口を開ける。
 モンブランクリームが口の中に入る。
 生まれて初めてのクリームの溶ける感触と濃厚な甘みが口の中に広がる。
 冷たい男の口元に笑みが溢れる。
「美味い」
 冷たい男は、生きていることの実感、そして幸せを噛み締めながらモンブランを味わった。

 そして祈った。

 あの親子に少しでも幸せが少しでも長く続くように、と。

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