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フレンチトーストにオレンジピール(4)

 ナオは、市立大学の看護学部を卒業後、そのまま付属の大学病院に勤めた。
 大学病院では救急救命を始め、外科、整形外科、産婦人科の病棟ナースを経験、どこの部署に行っても評価はA判定。優秀、手際がいい、同じ看護師たちから見ても処置の早さ、点滴の刺し方、患者への対応は素晴らしく、医師達からも彼女が手術に一緒に立ち会ってくれると言うだけで安心感がまるで違うと評され、一時期は医学部をもう一度受験してみてはとまで言われた。また、後輩への指導も素晴らしく、リーダーシップを発揮し、20代でチーフの声まで上がったが、「結婚するので」と丁重に断られ、遂には外来への希望を出された時は、上層部たちはとても驚いていた。
 恐らく子どもを産むことを考えているのだろうと周りは思い、チーフになったとしても産休育休は勿論使えるし、時短だって出来ると説得したがナオの決意は変わらず、惜しまれつつも外来への異動となった。
 ナオは、屋上のベンチでタケルが用意してくれたお弁当を食べていた。
 朝は洋食だからと、いつも和食弁当にしてくれる。
 今日は、鮭の俵お結びにたまご焼き、昨日の残りの里芋とイカの煮物、ほうれん草の白和えに明らかに早起きして作ったであろう唐揚げが2個添えられている。
 誰がどう見ても愛情弁当と言えるものだ。
 このお弁当を見られる度に「仲が良くて良いわねー」と年配の看護師達に揶揄われる。
 ナオは、鮭お結びをゆっくり咀嚼する。
 鮭の塩味と白米の甘味、海苔の風味とはこれほどに相乗効果を生むのかと驚嘆する。
 ナオは、お結びを飲み込み、水筒から注いだ焙じ茶を啜る。これもタケルが用意してくれたものだ。
 ふうっとお婆ちゃんにでもなったよう息を吐いて、じっと空を見た。
「平和だなあ」
 真っ青な空。どこまでも広がる空。何の刺激もない空。雲の一つでもあればいいのに今日に限ってそれもない。
 外来は、時に急患が来ることもあるがほとんどが穏やかだ。高齢者の相手、泣く子どもへの注射、不安を抱える患者への傾聴も救急や病棟の時ほどに深刻なものは来ない。
 穏やかだけど刺激のない仕事。
 自分が望んで異動したというのに、こんなことを思ってしまう自分は我儘なのだろう。
 病棟から外来に異動した理由は周りが考えているようなことではない。周りが考えているようなことを自分は出来ない。
 異動を希望した理由。
 それは外来には自分と年の近い女性がいないからだ。
 大体が40代後半〜定年間近の看護師が多い。たまに新人の看護師が入ったりするがかなり歳下なので範疇外だし、医師の中には同じ年代もいるがそんなに接点がない。
 そのおかげで心穏やかに仕事は出来ているのだが・・。
「退屈だあ」
 看護師になるのは昔からの夢だった。
 父親が当時では珍しい男性の看護師でその働く姿が格好良く、憧れを抱いたのがきっかけだ。
 しかし、自分のある特性に気づいた辺りからこの仕事は、自分には無理なのではないか?と思い、高校3年生の時に諦めて経済学部にでも進学して普通の会社員を目指そうとした。
 しかし、それを叱咤激励し、後押ししてくれたのが誰であろうタケルだった。
「ナオは、夢を諦めないで。自分に負けないで。ナオならきっと出来る。オレも支えるから」
 その一言が今の自分を作ってくれた。
 そして難関と言われた市立大学に合格し、看護師と保健師の資格を取得し。現在に至っている。  
 大学病院にはずっといるつもりはなかった。
 ある程度キャリアを積んだら家の近くの診療所か保健所、もしくは地域包括支援センターの保健師にでもなるつもりだったが、大学病院の臨床を経験してしまうと忙しく、やりがいもあるだろうが臨床に比べると魅力が低く、続けていくのが難しいのではないかと思ってしまう。
「どうしようかな・・・」
 こんな私に出来る選択肢。
「何悩んでるの?」
 吐息と共に耳元で声をかけられ、ナオは思わず「ひやゃあっ⁉︎」とらしくない声を上げる。
 いつの間にか白衣を着た女性が隣に座っていた。
 肩甲骨あたりまで伸ばした髪をシュシュでまとめ、胸元に流している。少し丸みのある顔に大きな目、口元に三日月のような笑みを浮かべるのがなんとも可愛らしい。少し幼顔なのに身体の肉付きはとても良く、白衣が色気をひき立たせていた。
 彼女は、この病院に勤めるMSW、メディカルソーシャルワーカーと言う職種で主に退院調整や介護、何らかの支援が必要な患者に対し必要とされる機関に繋ぐ仕事をしている。いわゆる相談援助職だ。
 ナオも病棟ナースとして勤務していた時に良く関わっていたし、外来になってからも同じ階だからよく顔を合わせた。そして今でもプライベートで色々なものを合わせている。
「い・・・いつの間に?」
 ナオは、動揺を隠せなかった。
「さっきからいたわよ」
 心外と言わんばかりの表情を浮かべてMSWは言う。
「声かけようと思ったんだけど、考え事してる顔があまりに可愛かったから見惚れてたのよ」
  MSWは、そう言って、男なら間違いなくころっといってしまうような色香のある笑みを浮かべてナオの頬に触る。
 ナオの心臓は、ドキドキして止まらない。
「あら珍しい。緊張してるの」
 MSWは、ナオの頬をピアノを弾くようにトントンと触る。
「突然現れたからびっくりしただけだよ」
 ナオは、なるべく冷静を装いながら答える。
「だからさっきからいたわよ」
 MSWは、面白いものを見るように喉を鳴らして笑い、ナオの顔に自分の顔を近づけて唇を合わせる。
 長いのか、短いのかわからない時間、2人は唇を重ねた。
 無言の空だけが彼女たちを見守る。
 そしてようやく離すと少し息切れしながらMSWは、笑みを浮かべる。
「おにぎりの味がする」
 あまりに色気のない言葉にナオは、苦笑する。
「鮭が美味しいでしょ?」
 2人は、額を寄せ合って笑う。
「今日はお誘いありがとう」
「こちらこそ、突然でごめんね」
「楽しみにしてる」
 そういってMSWは、立ち上がるともう一度ナオの頬を触り、去っていった。
 今日は、少しは刺激的になりそうだ。
 ふっとタケルの顔が脳裏に浮かぶ。
 温かい微笑を浮かべるタケルの笑顔が。
 一瞬、罪悪感が心を握る。
 お互いに理解し、同意していることなのに胸が苦しくなる。
 ナオは、お結びを口に放り込み、焙じ茶をがぶ飲みするとそそくさと片付けて屋上を後にした。

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