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【書評】真実を掴み取る意思を、私たちから奪い取られないために。 -村上春樹著「街とその不確かな壁」評

(書評の性質上、多少のネタバレを含んでいますので予めご了承ください。)

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私が村上春樹氏とお会いしたのは、ちょうど「コロナ・ウイルス」が世界的に猛威を振う前の2020年1月であった。

村上氏からの希望もあり、高田馬場一丁目にある雑居ビルの1階にある喫茶室ルノアールで話すこととなった。お互いビターブレンドとカフェ・オーレを注文し、軽軽自己紹介をし終えると本題に話が移った。

「不確かな壁の話を書こうと思う。」と村上氏は言った。
私は少しばかり驚いた表情となり、暫く発言できずにいるのを見ると村上氏は続けて話した。「然るべく決着をつけられる時期が来たのだと思う。それについてどう思うか聞きたかったんだ。」

「街と、その不確かな壁」というと村上氏が1980年に文芸誌「文學界」に発表した中編小説であったが、氏は当時の筆力から未完成の作品を生み出してしまったと幾度となく口にしており、従前その作品が出版されることはなかった作品だ。村上氏の書いた小説で書籍化されてない作品はほとんどなく、幻の作品として一部では注目を浴びていた。

「街と、その不確かな壁」が文藝界に掲載されたのは40年以上前であったものの、村上氏は度々「壁」に対し様々な言及をしてきた。1985年には「世界と終りとハードボイルド・ワンダーランド」にて交互に展開されていく物語の片側を「街と、その不確かな壁」で語られた世界を描くこととなったし、2009年2月5日イスラエル最高の賞であるエルサレム賞では「壁と卵」の見事なスピーチを行った。

イスラエル大統領であるシモン・ペレス大統領(当時)やバラカト・エルサレム市長(当時)を目の前にして、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ侵攻を批判する形で以下のように述べたのだ。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。

2009年2月5日 村上春樹「壁と卵」

私は村上氏から不確かな壁について書き直す話を聞き、40年前に「街と、その不確かな壁」を書いてから現在に至るまで村上氏が目撃したことを想像した。その重要な一部はエルサレム賞で語ったことであろうし、「1Q84」と、オウム真理教の被害者と加害者を取材した「アンダーグラウンド」「約束された場所で」も包含しているのであろうと想像がついた。

「私から申し上げることはありません。」と私は村上氏に率直に話した。

心の中では村上氏が、メタファーではなく直接的に壁についての物語を描くことが、同氏の作家としての有り様を決定的に(あるいは最終的に)裁定してしまうのではないかと危惧を抱いた。しかし歴史的作家が決着を付けにいく覚悟を示している以上、如何なる表現や質問も蛇足に過ぎなくなると感じてしまったのだった。

2

2023年4月に「街とその不確かな壁」が発刊され、発売の当日中に読み終えようと思ったが、重厚な物語に、読み終えるのに3日を要した。

本作の第二部の田舎町の図書館の舞台が福島県であったり、壁で囲まれた街が疫病から隔離された街であったりと、壁と現実のメタファーが読者に分かりやすい形で示された物語であることに少し驚いた。

しかし当然ながら「高い壁で囲まれた街」は読者によって感じ取るものは異なる。ある人にとっては法律であり、ある人にとっては資本主義であり、ある人にとっては効率であり、ある人にとっては家族や会社や宗教や商慣習である。

私たちが生きる社会では、それぞれの「高い壁で囲まれた街」が存在し、その不確かな存在を行き来することになる。

(村上氏は具体的に例えることを全く良く思わないだろうが)具体的に述べると「会社のシステムの中で活動する自分と、業務時間外で性愛の中で心を通わせている自分」であったり、「自らが生まれ育った街の中で役割を演じる言葉と、旅の中で巡り合った名も知らぬ者と通わす言葉」であったり。本作を読みながらそれぞれの中にある「高い壁で囲まれた街」を連想せざるにはいられず、第二部を読みながら、読者は自らの中に存在する物語をありありと感じることとなるのだった。

ある人にとっては(たぶん私の)、商慣習に支配された社会と新しいオルタナティブ、昭和と平成と令和にも変わらない連続性としての「高い壁で囲まれた街」を想起された。その象徴を生きる人物として、本作では「イエロー・サブマリンのTシャツの少年」が登場した。

「イエロー・サブマリンのTシャツの少年」は、学校には溶け込めず、家族とすらコミュニケーションが取れない少年であるが、本を読んだ端から全て記憶することのできる能力を持っている人物として描かれた。サヴァン症候群を持った少年であり、現実社会では上手く生きることが出来ないが、「高い壁で囲まれた街」では<夢読み>として生きることができる者として描写されている。

会社や学校生活では溶け込めないが、自分の世界では際限なく喜びを感じることができる。読者の中でも多かれ少なかれそのようなことがあるのではないか。まるで「イエロー・サブマリンのTシャツの少年」のように

その世界では二項対立構造を持ち、会社か自分か、恋人か他人か、本体か影か、正義か悪か、現実か虚構か、ロウソクの炎か深い暗闇か、福島県の図書館か高い壁で囲まれた街かといった形で私たちに選択を迫ってくる。行き来することのできない二項対立で、どちらかを選び取りなさいと選択を迫ってくる。

6歳になると学校に行き、12歳になると中学校に行き、18歳になると大学に行き、22歳になると会社に行く。私たちは「イエロー・サブマリンのTシャツの少年」と無関係にはいられないのだ。

3

恐ろしいことにシステムの中に暮らしていると、システム内での役職、給与、立場、関係値が構築されてしまい、外の世界で自由意志を持つことが出来なくなってしまう。ジョージ・オーウェルが描いた「1984」は私たちの社会でもあり、村上春樹が描いた「1Q84」でのアンチ・ウイルスは正当に働いているのか不安になる。

第三部では、主人公は「イエロー・サブマリンのTシャツの少年」に対しこう話している。

ぼくは自信を持てないんだ。もう一度外の世界に復帰して、そこでうまくやっていけるかどうか。ぼくは長くこの街で暮らして、その世界にずいぶん慣れてしまったから

村上春樹「街とその不確かな壁」p.647

作品の中で主人公は毎日、「高い壁で囲まれた街」で疫病の因子を締め出し街を正常に保つための<夢読み>という役割をこなしている。そして街には時計に針がなく、時間の流れが止まっていることが象徴的に描かれている。また、街に入るためには両目を潰し、自らの影を断ち切らなくてはならないのだ。

時の流れが止まり、影から遮断された閉ざされたシステム社会の内部で、そのシステム社会を正常に保つための仕事を主人公は加担することとなる(主人公は現実社会でも、書籍の流通システムの仕事をしていた)。

私たちもまた不断に<夢読み>の仕事をこなしていることに気付かされる。そして、そうこうしている内に、仕事をしている自分とそれ以外の自分の、どちらが本体で、どちらが影かが自分でもわからなくなってしまう。

「1Q84」ではカルト教団の堅牢な、閉鎖性あるシステムを正面から描いたが、その堅牢性、閉鎖性は「高い壁で囲まれた街」に共通した要素である。気づかない内に私たちもその壁の内部に住み、外部を締め出し、壁の内部を正常に保つための役割に加担することになるのだ。

第一部で壁の外に抜けようとする主人公に、壁は言った。

おまえたちに壁を抜けることなどできはしない。たとえひとつ壁を抜けられても、その先には別の壁が待ち受けている。何をしたところで結局は同じだ。

村上春樹「街とその不確かな壁」p.174

壁は執拗に、何度も私たちの側にいて、気付かない内に壁を形成する役割を自らこなすことになるのだ。

4

もちろん私は村上春樹氏とお会いしたことはない。虚構である。

文中の重要な場面にて「イエロー・サブマリンのTシャツの少年」は、『パパラギ』というサモアの島の酋長による20 世紀初頭の欧州旅行記が引用した。

同作品は島の酋長が近代欧州を旅しての体験を語る形式を有し、ユーモアと叡智に満ちた近代文明に対する批評として話題を呼んでいたが、現在ではドイツ人の著書による純粋なフィクションであることが判明している。「イエロー・サブマリンのTシャツの少年」は「本物でも偽物でも、そのへんはもうどちらでもいいことです。事実と真実とはまた別のものです。」(p.637)と述べた。

主人公にどちらが本体でどちらが影なのか二項対立の選択が迫られる中で、決定的な引用が述べられた。現実社会に戻るのか「高い壁で囲まれた街」に留まるのか。私たちで言えば、社会システムか自由意志か。二項対立でない、新しい啓示がなされた。

そして「イエロー・サブマリンのTシャツの少年」はしばし島の酋長を語ったドイツ人著書によるフィクションの正当性を語った後に、堅牢な社会システムから致命傷を負わない現実的な処方箋を主人公に ーあるいは私たちにー 投げかけた。

「信じることです。」
「何を信じるんだろう?」

「誰かが地面であなたを受け止めてくれることをです。心の底からそれを信じることです。留保なく、まったくの無条件で」

村上春樹「街とその不確かな壁」p.639


村上氏は著書の中で(何かの釈明のように感じられるから)あとがきを書くようなことはしないが、本書では文末にあとがきが設けられた。その中で重要な一文が存在する。

要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの真髄ではあるまいか。

村上春樹「街とその不確かな壁」p.661


残念なことに、私たちはウクライナ危機の只中にいる。未曾有の疫病もまだ克服できていなく、次なる疫病が訪れる前に私たちの社会はロックダウン以外の手段で生活を営むことはできるのだろうか。

やがて次なる恐怖が訪れるとき、私たちの前には堅牢な、閉鎖的な、そして効率的なシステムが機能してくる。そのシステムは、個を前提としない。壁を乗り越えたとしても、その先には別の壁が待ち受けている。何をしたところで結局は同じのように思えてくる。

高い壁で囲まれた街に別れを告げ、何の保険適用もない、心通わす人に出逢わないかもしれない道を歩んでいく必要がある。

システムに絡め取られないためには、ひたすらに歩み続け、移動を続けることを私たちは信じなければいけないのだ。このロウソクの火が消えてしまう前に。

(表紙:新潮社「街とその不確かな壁」特設サイトより引用)


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