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悼む人(お茶の間で)

『TVブロス』2018年3月掲載のコラムを加筆修正したものです。

 芸能人の訃報に胸が痛む。私はその人のことを知らないし、向こうも私のことを知らない。
 にもかかわらず、私の内部を構成するパーツの一部が欠損したかのような痛みを、訃報で感じることが「できてしまう」。不思議なことだ。


 寝入り端によく空想していることがある。私はどこかの農村で生まれ育ち、百姓としての毎日を過ごしている。
 妻と子がいて、隣人はみな親戚のようなものだ。その世界の私が出会う人間は生涯で100人に満たない。


 情報の伝達手段が増えるにつれ、人との関わり方も増えた。
 親類・隣人だけでなく、顔だけ知っている人、文章を読んだことのある人、手紙を交わしたことのある人、声を聴いたことのある人、そしてテレビで見たことのある人など。
 あらゆる些細な繋がりも含めれば、現代人が関わる人の数は数万から数十万人になるだろう。


 テレビタレントは、その些細な繋がりのためだけに存在している職業だ。
 タレントの訃報をテレビを通じて知るとき、「お茶の間の皆様」は喪失感に苛まれると同時に、その実、何も失ってなどいないことも実感する。
 心にぽっかり空いた穴は想像よりもずっと細く小さく、チャンネルをザッピングするうちに自然とふさがってしまうことだろう。


 ドラマ撮影中に倒れた俳優の死に寄せ「彼の死を弔うドラマを作って欲しい」とツイートした人がいて、発想の無神経さが非難されていた。
 無神経だが、個人的な愛情やその喪失のコンテンツ化こそテレビの持つ重要な機能で、ある意味でお茶の間の前の人々はそのようにしか人を悼めないのではないか、とも思う。
 なにより、その死の扱い方の下手さに私個人は妙な共感を覚え、ヒヤリとした。


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