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誰が信頼できる世界を創るのか?/映画『月』から考える。

 今日は久々に、映画の話。
 先日、『月』という映画を鑑賞しました。2016年、相模原で起きた障碍者施設殺人事件をモデルにした作品です。

 映画の詳細なレビューは、是非ともYoutubeでの生配信を見て頂きたいのですが、今回はその配信で伝えきれなかったことを書きます。映画の内容も相まって、今回の記事は大真面目かつ、少々大仰なことを言いますので、悪しからず。

 この映画自体、上記でも記した事件を扱っていますが、犯行に至るまでの物語の流れとして、障がい者施設の元職員であり、最終的に犯行に及ぶ、さと君(磯村勇人)しかり、同じ施設の職員である陽子(二階堂ふみ)や、主人公の洋子(宮沢りえ)・昌平(オダギリジョー)夫婦だったりの人間関係や職場環境が、重要な要素になってきます(今作には二人のヨウコの存在が重要になります)。

 ネタバレを避けるために、詳細は大幅に省きますが、この作品の登場人物に共通するのは皆、世界への信頼感を失っていることです。

 かつて売れっ子作家だった洋子は、震災の真実を小説で描こうするも、編集者の「読者の望む話を書け、真実は重過ぎる」という言葉を受け、作家としての方向性を見失い。同時に、不幸にも第一子を幼くして失ったことで、絶望を彷徨う人物として描かれます。

 そんな洋子を支えようとする夫の昌平も、個人でストップモーションアニメを制作するクリエイターではあるものの、その作品は一向に日の目を見ず、才能を燻ぶらせたままです。そんな彼も、妻を支えながら仕事探しに四苦八苦し、やっと就いたマンション管理の仕事で、先輩社員に自分の創作をバカにされる日々。

 施設で働いている陽子も実は作家の卵でありながら、作品は昌平同様、世間に評価されず、また厳格なキリスト教徒の家庭で育った彼女は、幼少期に父親から受けていた躾と称された体罰を受けていたこと、そしてその父は母を裏切り不倫を重ねていたことで、親への信頼を完全に失い、孤立しています。

 障がい者支援の職に就いている、さと君や他の職員も、職場環境の劣悪さや隠蔽され続ける仕事の闇に、心を押しつぶされそうな日々を送っています。

 このような人物設定を見ても、いかに彼らが日常で抑圧された世界を生きているかが伺えます。この作品のテーマに中心には個人間における信頼感の断絶があるように感じました。

 コミュニケーションは、ただ同じものを見て、会話を交わしたり、それだけの表面的な状態で成立するものではありません。
 互いに交わした言葉の中から、話者の心を読み取ろうとする意思や、そこに何を感じ、互いにどう認識し合うかを、交わし合って成立するのだと思います。つまりコミュニケーションは相互の態度によって生まれるのではなく(そうであることが理想ですが)、まず初めに受け取り手側の「知りたい」「分かりたい」という関心と想像力を合わせた努力なくして、成立しないのです。

 この映画に登場する人物たちは、物語の序盤では自分の意思をいかに通すか、いかに己の自尊心を保つために振る舞うか、いかに絶望を自身の胸中に抱え込んで、他人を巻き込まないようにするかを考えあぐね、苦悩しています。それはなぜでしょう?

 それは"世界を信頼できない"からです。

 ここでいう世界は「世界190ヶ国」の世界ではなく、自分という存在を形成する、友達、恋人、家族、職場、そういった身の回りの世界のことです。

 この作品の中では、厳格な家庭で体罰を受けて育った、二階堂ふみさんが演じた陽子というキャラクターが、そうした世界への不信感を全面に表した存在として描かれていますが、多かれ少なかれ、彼女のように身近にいる他者への不信感は、皆持っているのではないかと思います。

 それは幼少期の家庭という世界で、学校のクラスという世界で、クラブ活動やサークル、職場、あらゆる自分の生きている身近で、小さな世界で形成されてゆき、人は他者との間にある見えない壁をより強固にして、心を守ろうと自己防衛に入るのです。

 身の回りの世界に信頼が置けないからこそ、誰にも悩みを打ち明けられず、愚痴すらも吐けず、心に滞留し続ける汚濁は消化不良のまま、日常を形式上、平気な顔をして生きるのです。

 さて、ここで提唱です。この信頼できない世界を打破するために、我々は何をするべきでしょうか? 何をすることができるでしょうか?

 先にも紹介したYoutube生配信では、相模原事件の背景と原因には、自己責任では消化しきれない社会制度上の問題があるとして、国家の責任でもあるというお話をしていますが、今回はそれと違った、個人単位で取り組める小さな、それでも確実な解決策です。

 今更、当たり前のことをいうようですが、それは相手を気遣うことです。相手の心と状況を想像しながら、対話を諦めないことです。
 しかし、言葉を書き出したり、言うのは簡単です。

 自分の生活で、いっぱいいっぱいな状況で、なかなか困難なことでもあります。

 また相手を気遣うということは、相手の心に少なからず踏み込むことになり、それは同時に、心の負担を背負わざるを得ないことにも繋がります。

 それを僕らは心のどこかで分かっているし、そうすることの大変さと、相手の立場も想像して、そうされることの鬱陶しさも知っています。お節介になり過ぎて、ウザがられることだってあります。

 そこの見極めは大変だし、失敗することだって多々あります。なのでまず初めに、自分の最も身近で、一緒にいる時間の長い相手に対して、今までのとは少し違った、相手の心を想像した上でのコミュニケーションを試みてはどうでしょうか。

 世界を良い方向に向かわせたいなら、最も近しい他人との世界を、良いものに変えていくことしかないような気がしています。

 甘い考えかもしれません。無駄な理想主義かもしれません。けど僕は、この『月』を鑑賞して、そう思わずにはいられません。

 自分の身の回りの世界をよくすることが出来れば、小さくても信頼できる世界を創ることが出来れば、その輪はもう少し大きくできるように思います。

 またその輪の中に居る人が、自分の知らない人々のいる先で、それが飛び火のように広がっていけば、という風にも思います。

 僕やあなた、という一個人は、信頼できる世界を形成するために必要な小さな細胞であり、同時にその代表であるのような気さえ、僕はします。

 あなたが本当に困り果て、人生に行き詰ってしまったとき、それを相談できる誰かはいますか?
 あるいは、そうなった場合に助けたいと思える相手はいますか?

 信頼できる世界を創るために、自分の身の回りの小さな世界を、良いものへと変えられる努力を惜しまないようにしたいと、切に痛感した作品でした。

 もう公開館数や、回数はかなり減って来てますが、観れる元気(重い内容なので、精神衛生が安定しているときを薦めます)と、タイミングがあるなら、是非とも観賞なさって下さいませ。

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