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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(1)

甲・相同盟の復活

元亀2年(1571)にはその後の歴史に大きな影響を与える出来事がもう1点あった。
10月3日、北条氏康が死去したことを契機に、武田・北条間で同盟復活の交渉が始まったことである。

武田信玄公も晩年に差し掛かる頃。今川討伐の一件もあり、”家康あなどれぬ”と感じ取ったことであろう、兼ねてから敵対していた北条氏康はいなくなった。東の脅威を取り除くことから取り掛かり始めた。

北条氏康公の死去は、家康公にとっても危険が迫るかもしれない、と感じさせただろう。

北条氏政(氏康死去後の当主)と上杉謙信とは同盟を破棄。元亀3年(1572)正月、武田氏と「国分」が行われ、北条方は沼津にある平山城を破却し、興国寺城を武田方に引き渡した。
関八州は北条領とされたが、武田方が御嶽城(埼玉県)を引き渡したのはその年の11月と遅れてのことであった。

ここの対応の遅れを北条方は指摘しなかったのだろうか。およそ1年の間、武田氏が一部の領土を持っていたのである。もしかしたら、何か条件が合ってその城(御嶽城)を保有していたのかもしれない。検索をしても出てこない。
おそらくだが、御嶽城は武田氏が最後に北条方から攻め落とした城で、交渉を進めるのに時間がかかったからではないか、と思った。その代わり、武田氏は西上野の領有は認められている。

元亀3年(1573)7月、飛騨侵攻。上杉方に通じていた江馬輝盛を攻めた。岩村城攻略について、城主の遠山景任は信長の叔母を正室とし、弟の直廉(苗木城城主)の娘は信長の養女となり、永禄8年、武田勝頼に嫁いでいた。ところがこの年に遠山影任・直廉が死去したことを機に、信長が攻め落とした。(9~10月)
しかし織田家支配は完全なものではなく、信玄の調略も進んでいて、10月末には岩村城は武田方に降った。
信玄は、大規模な侵攻を行う際は、進撃先方面への調略を行うのが常であった。

奥三河の山家三方衆が7月以降、武田氏に従属した。9月には美濃郡上の遠藤氏も降った。

いきなり家康のいる遠江に侵攻するのではなく、山間部からじわじわと攻め入っている。
これは恐らく、本当の敵は織田信長と認識しているからだろう。

織田信長はこの時、四方を敵に囲まれる”しんどい状態”。徳川を落とすのは容易いと考え、”織田・徳川両家を周りから圧力をかけて攻め滅ぼそう”と考えている行動の表れのように思う。

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