Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(1)
甲・相同盟の復活
武田信玄公も晩年に差し掛かる頃。今川討伐の一件もあり、”家康あなどれぬ”と感じ取ったことであろう、兼ねてから敵対していた北条氏康はいなくなった。東の脅威を取り除くことから取り掛かり始めた。
北条氏康公の死去は、家康公にとっても危険が迫るかもしれない、と感じさせただろう。
ここの対応の遅れを北条方は指摘しなかったのだろうか。およそ1年の間、武田氏が一部の領土を持っていたのである。もしかしたら、何か条件が合ってその城(御嶽城)を保有していたのかもしれない。検索をしても出てこない。
おそらくだが、御嶽城は武田氏が最後に北条方から攻め落とした城で、交渉を進めるのに時間がかかったからではないか、と思った。その代わり、武田氏は西上野の領有は認められている。
いきなり家康のいる遠江に侵攻するのではなく、山間部からじわじわと攻め入っている。
これは恐らく、本当の敵は織田信長と認識しているからだろう。
織田信長はこの時、四方を敵に囲まれる”しんどい状態”。徳川を落とすのは容易いと考え、”織田・徳川両家を周りから圧力をかけて攻め滅ぼそう”と考えている行動の表れのように思う。
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