ヲタクのためのヲタクによる解説 『忘れっぽい理性と完全な忘却』

※小説『理性と忘却』のネタバレを含みます。
小説をお読みになってから解説をご覧ください。

小説『理性と忘却』をご覧いただけましたでしょうか。ご覧いただいた方には感謝いたします…!
稚拙な文章で大変恐縮ですが、予想してなかった展開を楽しんでいただけたかなと思います。ただ、僕はヲタクの方々にも楽しんでいただきたいのでかなりメタでマニアックな伏線を張っています。

しかし、メタすぎてわからない点が多いから解説を出してほしい!と、あるヲタクの人から要望がありました。よって今回、作者自らこの作品を解説していきます!
こちらも併せて楽しんでいただければと思います!


1. 「理性」と「忘却」

①理性の神 ヘルメス神

 ・ヘルメス神はオリュンポスの12神の末っ子です。盗みの神として有名ですが、生得の頭の働きで富・幸運の神とされ、商売・旅人・音楽などの神としても有名です。また、神の使者と案内役も務め、神と人間を繋ぐ通訳者・使者の神でもあります。また、トリックスターの神としても有名です。人間の魂も扱い、死者の霊魂を冥界へ導く役も担います。
  ⇨これは、作中でかなり引用してます。当初の団体名の名前を決める時の参考にしたという文脈でこの意味はかなり重要でした。いろいろな意味があるヘルメスはかなり器用な神だったと推察できます。それゆえになんでもなれる。何にでも解釈できる。人間が思うままに解釈されている神として、こんなに面白い神はいないと思います。時代背景によってただのシンボルとして掲げられる神。まさにこの作中の学生団体ヘルメスのようだと思いました。

 ・ギリシャ神話(旧約聖書)では上記の神とされていましたが、そこからさまざまな神話と融合し、ヘルメス神はエジプト神話などと融合し、学者を守護する惑星神メルクリウスと同義になります。
 ・ギリシア神話、近東の神話、エジプトの神話、また天文学的事実から一番早い星「水星」を司るマーキューリーの意味合いも強くなります。
  ⇨作中かなり水の描写があったと思いますが、これは水星の神だった所以です。あと、一番早い星という点は、麗蘭の即断即決の性格にも反映しています。

 ☆そして大事なのは、古代ギリシアの神官テアゲネスの思想の中で、ギリシャ神話の神々は争うことはないが、もし寓意的にオリュンポスの神々を(人間の)心理的特性に当てはめると以下の意味になると言いました。
  ヘルメス神=「理性」
  レーテー神=「忘却」

  ⇨テアゲネスはこの二つの心理的特性は相反するものだとして唱えました。僕はこれを見て、これだ。。。このタイトルだ。。。と啓示を受けたようでした。

②忘却の神 レーテー神

  ・レーテーは、黄泉の国にいくつかある川の一つです。川の水を飲むことで、完璧な忘却を体験することになる。それは、レーテー神の慈悲だとされています。生前の全てを忘れて、新たな生命になれる。
   ⇨これはコールドスリープのエラーと関連させる重要な要素です。レーテーに関しては、あまり情報がないのですが、今回の作品にはすごいあっていました。忘却は悪いことなのか。それは慈悲なのかもしれない。間人は別の目的がありましたが、その行動のおかげでかなりの人が救われました。
   ⇨そして、水という点。水星の神のヘルメス、忘却の水の慈悲を与えるレーテー。作中で飲む水(または白湯)は、なんのために飲んでいるのでしょうか。過去と現在において、意味が変わってくるというのがここの面白いところです。それに個々の解釈は読んだ人によっても変わりそうなので、あえて何も言いません(笑)

③忘れっぽい理性?

  ・だからと言って、理性と忘却は対立するものでもないと思うんです。理性が働いていると思えば、それは必要性のないものを削いで、情報を集中させているだけではないのか。そんな気がします。
  ・神々はその一貫とした司るものがありますが、人は人です。人は矛盾を伴っています。この作品はあくまで人間の話なのです。だから、僕はこの「忘れっぽい理性」と「完全な忘却」というのが人間のリアルだと思っています。

2.麗羅というキャラクターについて

①名前の由来

三つの意味を交わしています。
  ・ヘルメスが兄のアポロンに送った楽器「リラ」
  ・リラ/レイラはペルシャ語で「夜」の意味がある
  ・ライラック(リラ)の花がクラシックで使われ、失われた希望や幸福に結び付けられています参考サイト
    ⇨このことから、麗蘭(レイラ)というキャラクターが生まれました。

②性格の由来

  ・ヘルメス神が惑星と結びついた水星の神として早い神なので、即断即決の性格にしました。

③パウロとヘルメス

  ・パウロはキリスト教の布教者です。だからギリシャ神話とは相反する存在ですが、彼の布教の記録に興味深いところがあります。
  ・パウロな市民を治したことで、それを奇跡だと市民に囃し立てられました。そして、パウロはよく話したので、通訳者の神としての「ヘルメス」として崇め奉られました。しかし、パウロはこう言いました。

「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち返るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」
「わたしたちもあなたがたと同じ人間にすぎません」

  ・これは人間が神をどう扱うかということに対して、とても示唆的だと思います。作中で、麗蘭もその意味を暗喩的に言っています。

でも私は完全じゃない。神様みたいな芸当はできない。神は神、人は人。だからみんなの力が必要なの。でも、みんな眠ってしまったら、ある特定の意思によって未来が向かってしまう気がする。

  ・ここは完全に引用しています笑。これは神と神の話ではなく、人と人の話です。これは現実で起こっていることなんだという意味づけのためにはこの引用は必要でした。

④リラとアポロン

  ・第8章の最後にある、あの詩は僕の思いです。
   太陽ってのはなんだか遠い存在で、見つめるのも大変。でもみんなあの輝きに対して競争心が湧いて、皆あれを目指す。ただなんだかそれは、屍を超えていくように見えて、深く深く沈んでいく感じがする。
  ・これはまぁ僕の曲解なのですが、「ヘルメスを通して渡されるリラがアポロンに届く」描写が、「学生団体ヘルメス(または間人)を通して麗蘭がみんなに手を伸ばす」描写を一致させたかったんです。麗蘭はわかりやすい競争に目を向けるのではなく、皆の力を借りて前を向く力に手を伸ばして、あの活動が生まれたとしたかったんです。それが、あの最後の言葉に全てが詰まっています。

3.各花言葉の由来

第1章から第8章は、なぜか花の題名?
最後だけ、何か別の意味がある!
そんなことを思ったのではないでしょうか。

想像通り、これらに意味を添えています。
レイラ(リラ、ライラック)が花の名前だったので
5月の花を集めました。

花はすべて5月中に咲く花の名前です。
そしてそれぞれ、5月の誕生日花でもあります。
それを念頭に、解説を見ていきましょう。

①花浜匙(はなはまさじ、スターチス)

5月から7月にかけて咲く花です。
誕生日花の日付は、5月12日です。
ドライフラワーに変えても色褪せず、
いつまでも変わらない美しさを持つことから
「変わらぬ心」「永久不変」「途絶えぬ記憶」とあります。

これは最後のエピローグのセリフにつながる章の名前です。時間がたっても、変わらない二人の関係性に花の名前を充てました。

②空木(うつぎ、卯の花)

5月から7月にかけて咲く花です。
誕生日花の日付は、5月4日です。
花言葉は「秘密」です。
空木の名の由来は、その幹が空洞だからだと言います。また、卯の花は古来より、初夏の訪れを知らせる花とされています。

第二章の何か秘密を抱えた間人を表しており、
5月という特徴づけ、そしてその空洞な特徴は
抜け殻の二人の男女を表してます。

③花水木

4月から5月にかけて咲く花です。
誕生日花の日付は、5月9日です。
花言葉は「返礼」「私の思いを受けてください」です。

「違うよ。間人君。私が言葉にするのが上手いのではなくて、君が言葉を受け取るのが上手いんだよ。私は話すのが好きだけど、それを受け取る人がいないと、ただ煩くてやかましいだけだもの。」

言葉にしても伝わらない。
そういう麗蘭の状況を表してます。
ここはあんまり関連性ないように自分も思ってます。ただ、この小説全体を通して、「言葉にすること」を意識してます。長話をまぁよくつらつらと話しているな、と思われた方いらっしゃるかもしれませんが、それはわざとです。
現実では長くつらつらというより、
端的に早く伝えることが求められてますよね。
でも本当は長く言葉にしないと伝わらないことって
いっぱいあると思っています。

④肝木(かんぼく、ビバーナム)

5月から7月にかけて咲く花です。
誕生日花の日付は、5月20日です。
花言葉は「大いなる期待」「私を見て」です。

そもそも、なぜコールドスリープで記憶をなくした一部の人が記憶を取り戻すのでしょうか?
仮説として、未来への「期待」や「希望」だと僕自身は思ってます。未来へ進もうとすればするほど、過去が原動力になる。たとえ過去の記憶が辛く耐え難いものでも、それは大きな原動力にもなりうる。麗蘭が親友二人を亡くしていることがそうであるように、未来をどう捉えるかで「過去の意味」も変わるものだと思います。
意味が変わった時、過去は忘れたいものから、思い出さなくてはいけないものになるのでないかと考えました。

そしてこの章では「期待」です。
自分や他人への大いなる期待。
それが過去を思い出すトリガーになったのだと考えてます。

⑤薫衣草(くんいそう、ラベンダー)

5月から7月にかけて咲く花です。
誕生日花の日付は、5月14日です。
花言葉は「あなたを待っています」「沈黙」「献身的な愛」です。

この頃から間人は団体に対してあまり良くない印象を持ってます。それはあえて言わない(沈黙)、なぜなら麗蘭への献身的な愛があるからです。
そして以下の文。

「私が神様と取引して、この世の中を変えてほしいと、体を差し出したら、間人はどうする?」
-(中略)-
「神様の仲間のふりをして、君を連れ出す、かな。」
「ふふふ、もしそうなったら。待ってるね。」

ここで「あなたを待っています」と繋がります。
これは20年後の麗蘭の状態ともリンクしている文でもあり、間人の実際の行動を示唆しています。
彼が「ヘルメス」の仲間のふりをして、麗蘭を連れ出す。ここの伏線が回収されるのは書いてて気持ちよかったです笑

⑥菫(きん、すみれ)

4月から5月にかけて咲く花です。
誕生日花の日付は、5月31日です。
花言葉は「希望」「愛」「誠実」。
紫菫は、「白昼夢」という意味があります。

コールドスリープがこの物語に必要だと思いつかなかった当初、この章の男性は認知症の男性としてました。古い記憶が何度も新鮮味を持って思い出してしまう。何度も同じ夢を見るように、目を覚ましている時に、楽しい記憶も悲しい記憶も新しいこととして思い出される。不明確で朧げな記憶は実態を伴わず、感情だけが心を苦しめる。そんな感覚なんだと思います。一度思い出したことも忘れて、一度思い出して悲しんだことも忘れて、心だけが疲弊していく。認知症の人たちはそんな白昼夢にいると思ったんです。

僕の祖父も今重度の認知症です。昼も夜も見境がわからなくなり、記憶は50年前くらいに戻ってる。家族の名前はほとんど忘れています。元々はおしゃべりな人なのに、今は寡黙に暮らしてます。
昨年の12月に祖父に連れ添っていた祖母が亡くなりました。祖母は心臓の病で倒れそのまま亡くなりました。
祖父は祖母が亡くなったことを普段わかっていません。しかし、ふとしたときにそれを思い出して泣くんです。

僕は忘れるとは本当に残酷だと思うんです。
幸せな記憶も辛い記憶も忘れるのはつらい。
個人的な記憶も、この世にさまざまある問題も、
何一つとして忘れてはいけない。
いや、目を逸らしてはいけない。
(ただ一方で、忘れるとは慈悲だとも思います。
正解のない問題はそもそも正解がないのですから、
意見を示すことが大事です。僕の意見として忘れることは残酷だと思うのです。)

みんな目が開いているのに、何か忘れているのは
白昼夢にいるからだ
と思い、この名前を章の名前にしました。

また、彼が記憶を思い出すのは、
未来に「希望」を持ってしまったからだと思います。
それゆえに引用しました。

⑦迷迭香(まんねんろう、ローズマリー)

11月から5月にかけて咲く花です。
誕生日花の日付は、5月27日です。
花言葉は「あなたは私を甦らせる」「私を思って」「追憶」「変わらぬ愛」です。

私を蘇らせる。麗蘭からのメッセージとして
この花言葉を拝借しました。

⑧涼月の霜(りょうげつのしも)

これは花の名前ではありません!
元々小説のタイトルにしてたのですが、
これはどうしても使いたかったんですよね。

最初にこの言葉を考える際に、
五月の物語であること、そしてコールドスリープが溶けていく物語であること。この二つのことから、五月の季節に冬のようなことが起きる、そんな言葉ないかなと探してました。そんな時こんな詩を見つけました。

海天東望夕茫茫  海と天と 東を望めば夕べ茫茫ばうばうたり
山勢川形濶復長  山勢さんせい川形せんけい濶ひろくして復また長し
燈火萬家城四畔  燈火とうくわ万家ばんか城の四畔しはん
星河一道水中央  星河せいか一道いちどう水の中央
風吹古木晴天雨  風は古木こぼくを吹く 晴天せいてんの雨
月照平沙夏夜霜  月は平沙へいさを照らす 夏の夜の霜
能就江楼銷暑否  能よく江楼かうろうに就きて暑しよを銷けすや否いなや
比君茅舎校清涼  君が茅舎ばうしやに比すれば校やや清涼ならん

【通釈】夕方、東方を望めば、海も空も茫々と暮れ、
山並も川の流れも、ゆったりとどこまでも続いている。
あまたの家々の灯火は城市の四辺まで行き渡り、
天の河が一すじ、川面の中央に映じている。
風は古木を吹いて、晴天の雨のように音を立て、
月は平らかな川砂を照らして、夏の夜に降りた霜のようだ。
君もこの川のほとりの楼閣に来て避暑が出来ないものか。
君の狭苦しい茅屋に比べれば、少しは涼しいだろう。

http://yamatouta.asablo.jp/blog/2010/07/24/5246091

美しい詩ですよね…。壮大な自然に気持ちを乗せて想いを伝えるこの漢詩が僕気に入ってしまって。
5月に降りた霜(コールドスリープ)が溶けていくのは美しくあって欲しいと思いました。

それから「涼月の霜」というタイトルを生みました。涼月は、5月の別の名です。
でも驚いたことに、アントニア・ホワイトさんの「五月の霜」という小説がすでにあったんですよ。
内容は、少女ナンダが父がカトリックに改宗したことによって学校に転校。しかし、学校では異教徒扱いで、ひどい仕打ちを受ける。カトリックの魅力に気づきながらも、全く自分の努力が報われない。五月の若葉のような少女に、冬の霜のように冷たい仕打ちが迫る。そんな意味からこのタイトルがあるようです。
僕はこの物語は、麗蘭に起こったこととそのままだと思いました。ナンダというのは、Nancy(ナンシー)の派生語で「キリスト教において神が人間に働きかける慈愛から神の恩寵の意味がある。」とのこと。
(いやいや、ギリシャ神話とキリスト教をまぜるなという話なんですが。)
ただ物語の抽象レベルでここを関連づけたかった
だから、麗蘭には「ヘルメス」という神の恩寵を受けているという程にしたかったんです。あからさまは非科学的だし、奇跡なんて陳腐な小説になるので、あくまで可能性の話の延長線上で物語を紡ぎました。
彼女自身が動き、彼女が紡いだ物語が『理性と忘却』なのです。

4.変なこだわり


①名前の位置

『理性と忘却』というのは、「麗蘭と僕」という
並び順で統一しています。このタイトルは最初から、麗蘭と僕の対立の上にあったのだと印象付けました。

②漢数字

文中に出てくる数字は全て漢数字にしています。
これは感覚的な話なのですが、数字に落とし込むというのは何か現実感が出てくる気がしてしまうのですね。だからあえて、ここは統一しました。

③一人称

間人が「僕」という一人称だったのは、
間人自身も過去に囚われて過去の自分を
なぞっているだろうという思いで
統一しました。

以上、さまざまなこだわりがありますが、
僕も忘れているところもあります。
それは是非また読んで楽しんでいただければと思います。
以下はあとがきとさせていただきます。

あとがき(この物語ができるまで)

今回書いた「理性と忘却」に関して、作成した率直な感想と作成経緯を、あとがきとして書かせていただきます。

●2021年12月
最初は『朝にも昼にも夜の空』という題名でした。
二年前の冬(2021年12月)の時点で「第一章」と「第二章」の部分しか書けていません。(※第三章の近未来描写以外は、今と内容はほぼ一緒です)男が三人の男女と出会い、会話を交わすという物語だけ。

男がなぜこの三人と話すのか?
男が抱えているものは何か?
そして、最初の女にだけは
なぜか雰囲気が違うのはなぜか?


自分で書いていて、書いた意図がわからないというのはよくあります。そこから一向に続きが書けなく放置したままでした。

●2022年12月
次に書き始めたのは2022年12月です。
以前書いた『朝にも昼にも夜の空』の続きは、まず彼らとの対話を延長してみよう。そう考えました。そして、「第四章」と「第六章」ができました。
今と内容は非常に異なりますが、根本は一緒です。(※宮下の弟の描写はこの時点でありません。)
彼らは失意の中で何かを思い出し、その朧げな記憶の一片だけでも自信を無くし、命を絶ってしまう。しかし、具体的な理由がない。観念的なもので、理由は彼らの中にとどまっている。僕も書いていて、なんだかわからなくなってきました。

そしてそこから大迷走します。
主人公(今でいう間人)を著者である僕と重ねて小説の題材に思い悩み、人々の話を聞いて一本の小説を作り上げるという物語を書こうと思います。
でも、小説家の悩みについては近代の小説家が出し尽くしている気がしました。それに、自分なんて何も書きたいものなんてないんだ!という自己憐憫をわかって欲しいみたいな文章になってしまい、僕の稚拙な言葉によればそれは子供の言い訳みたいで見てられませんでした。

●2023年4月
そして2023年の4月あたりに百田尚樹さんの『成功は時間が10割』という本を読みました。その中で、百田さんは近代小説家を否定してました。

余談ですが、日本の人気作家は何人も自殺しています。芥川龍之介、有島武郎、太宰治、川端康成、三島由紀夫など、日本の人気作家の多くが自殺です。なぜか日本では自ら生きることを否定する作家が人気です。私も自殺すれば死後人気が高まるかもしれませんが、全くその気はありません。私は「文学とは人々に生きる勇気を与えるもの」と考えています。自分の人生さえ否定してしまうような人間の書いたものは読む気がしません。おっと、これ以上書くと、方々から叩かれそうなので、この話はここでやめます。

成功は時間が10割 百田尚樹

この本の中では何度か自殺に関して触れられていました。また、キリスト教と仏教の自殺の捉え方の違いについても言及していました。
僕は頭の中が揺さぶられたようでした。
この時は自殺について何か思ったのではなく、なぜ明るい勇気を与える結末をまず考えてないんだ?僕は何か小説をただ書くことしか考えてなかったと改めて気づいたんです。
学生の頃は有り余る時間の中で、自分が伝えたいことや読者にプラスになることを常に考えて執筆していました。
しかし、社会人になってから、限りある時間の中での執筆は、小説を書く行為自体が目的化して、本来の目的を失っていたんです。言葉は書けても、思いは紡がれていかないのはこれが理由だったと思いました。
そして、僕は無理に書くことをやめました。

●2023年5月
2023年5月になりました。
創作大賞2023のオープンです。僕は今年正直諦めていました。無理に書くことをやめよう、次チャレンジだ。そうして、僕の頭は切り替えていました。
いい機会だと思い、今まで知らなかった分野のことを調べようと思いました。そこで調べていたのは、ギリシャ神話です。夜の神ニュクス、幽冥エレボス、二人から生まれた昼の神へメラ、死の神タナトス、などなど。原初の神々の誕生から、関係性まで一通り見たらその世界観に魅了されました。
その後もギリシャ神話を追い続けました。
起源の神々から伸びていった家系同士が結ばれることや、争うこともある描写がなんだか好きです。人間臭くありませんか?
僕は中でもオリュンポスの神々が気に入ってしまったんです。
そしてその中のヘルメス神がどうしても気になってしまった。オリュンポスの12神の末っ子で、その役割に魅了されました。
でもこれもまだ点として残ったままでした。

●2023年5月18日
そして2023年5月18日。芸能人の衝撃的な自殺幇助と自殺未遂の事件。具体的なことは書きませんが、来世に期待しよう、的なやりとりがあったこと。死ぬことはないのにという無遠慮な発言が目立ちました。その時に百田さんの著本を思い出しました。そして、僕はリチャード・デイヴィスさんの『エクストリームエコノミー』や中藤玲さんの『安いニッポン』、橘玲さんの『働き方2.0vs4.0』・『バカと無知』・『上級国民・下級国民』、成田悠輔さんの『20世紀の民主主義』、中村淳彦さんの『東京貧困女子』、藤田孝典さんの『下流老人』を読んできて抱え込んでいた、日本社会への疑問をもう一度考え直しました。

●当事者の逃げる場所はどこにもない
「なぜ逃げることが推奨されているのだろう。」

自殺は悪いこと。これが世間としては一般的に持たれている意見。しかし、なぜか当事者の話を聞くと、「それは仕方ないね」となってしまう。また、個人の自由と責任が問われています。「死ななくてもいい逃げてもよかったんだよ」、という個人に選択の余地があるような発言は、当事者の状態を全く顧みてないと僕は思うのです。
たとえ逃げたとしても、ずっと心に残り続ける絶望。それは自身への劣等感と諦観。僕が宮下の弟を物語に出したのは、逃げても埋まらないものが現実にはあるということを印象付けたかったからです。死ぬようなほどの疾患ではないが、死ぬほどつらい。(反感を買いそうですが)完全な病人と、常人の間にいる理解されない存在は、白黒つけたい人にとってはとっても扱いづらく、考えるのも億劫になります。「この人は自殺しても仕方ない、この人は死ぬほどでもない」という判断がそもそも人一人が決めていることに何か違和感を感じます。だから、死ななくてもいい逃げてもよかったんだよというのは、当事者のことを考えてないテンプレの発言に見えてしまうのです。
そして、当事者はその環境から逃れるという選択がなかなか取ることができない。実際、心理学の実験で「学習性無力感」というものがあります。

学習性無力感とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。

1967年にマーティン・セリグマンらのオペラント条件づけによる動物実験での観察に基づいて提唱され、1980年代にはうつ病の無力感モデルを形成した。

ホルぺ・ブカイ 「鎖につながれた象」

つまりは、小さな痛みにずっと耐えることは、一瞬の大きな痛みよりもきついんです。当事者の人はずっと耐えてきて、逃げるという選択ができなくなっていると僕は思います。

この現状を解決するには、そもそも逃げ場が必要だと思うのです。
僕はさまざまな本を読んで、今世界の現状や、特に日本の状況を考えてきました。『エクストリームエコノミー』の中で言われていることですが、非公式なコミュニティのような社会の避暑地的なものが必要だと思っています。分かりやすく、単純明快、白黒はっきりする社会の中心は説明が不要な価値(誰にでもわかる名声)を手に入れられる一方で、競争が荒れ狂う血生臭さがする。そういう環境から逃げる場所が無くなっている。近代から現代にかけて非公式のコミュニティがなくなっていることが、”今逃げる場所がない”という心理状態にする構造的な問題なのだと思うのです。
時代が経るにつれて、個人に権力や機会が細分化されていきました。日本で例を取ると、村社会からの逸脱です。

お金のない世界が無条件に素晴らしいとはいえない。なぜならそこは、愛情や友情に満ちているわけではなく、憎悪や嫉妬、権謀術数が渦巻くベタな人間関係でがんじがらめになったムラ社会でもあるからだ。
近代というのは、わたしたちが息苦しい共同体(コミュニティ)を捨てて、モノやサービスを貨幣と交換するドライな関係(市場経済と資本主義)を望んだからこそ生まれた。

橘玲 『裏道を行け』

このように現代は、個人と個人がやり取りできる一方で、自由と自己責任が個人に全ての負荷がかかるようになりました。たとえ、助けてくれる人が身近にいたとしても、構造的な問題にぶち当たることがあります。(実際、8050問題、老老介護、共倒れ夫婦、民事の金銭トラブルなど)
僕はこのような現状の構造を見て、自殺というのはもはや、最終手段で覚悟を持ってするもの(切腹等)ではなく、明日旅行に行くというような、生活の1つのオプションにハードルが下がってしまっていると思いました。個人の選択の問題ではなく、構造的な問題だと思います。

自死を避けるには、戦うか、逃げるか?を個人に説いても難しい。そんなことを聞いていてはいけないとさえ思います。戦うのも逃げるのも、
僕は非公式なコミュニティの復活が必要だと思います。
確かにムラ社会というのはがんじがらめになって、個人の自由を保障するものではなく、奪うような構造でした。しかし、僕が望んでいるのは、同じ方向を向いている人が集まるような非公式なコミュニティです。
それは世間のレッテルから逃れるための避難所みたいなところです。

だから僕はこの作品に、学生団体ヘルメスという存在を登場させました。それは社会的に弱い集まりですが、強いパワーとタフさを持っています。彼らの活動は数年で身を結ぶような、そんな奇跡は起こりません。何十年という月日の上でやっと成果が、出てくる。どんな政策や取り組みも何十年後にやっと身を結ぶものです。僕はその現実感を取り入れつつ、どうかそれを諦めずに頑張って欲しいという思いがあり、彼らの活動の苦悩と葛藤を描き続けました。

そういう思いからこの小説が生まれました。
嫌な環境で戦い続けて神経をすり減らしたり、
嫌な環境から逃げ出して路頭に迷ったり、
そういうことがある世の中で
もし別の場所で戦える社会になれたら
また前を向いて立ち上がれる人が多くいる
社会になると思っています。

●当事者以外も「逃げる」
また、当事者以外の人たちも逃げると思っています。それは考えることから逃げる、ことです。
あの国では戦争がある、日本には明日も生きられない人がいる、未来は人口動態の危機に陥る、そして自殺者数の増加。毎日多くの悲しいニュースがトピックとして注目されがちだ、という意見があります。確かにそうです。悲観的に生きることは気力を失うのは間違いないですし、報道にはかなりの情報操作があります。僕も報道で働いていたのもあり、それは実感しています。
ただ言葉悪くすると、僕は目の前の忙しない日常で他人のことなんて構ってられないだけの言い訳なのではないのかと思うのです。

置き去りにされてる問題を解決するために、何かしていることはありますか?
募金ですか?政府の批判ですか?居酒屋で愚痴ることでしょうか?自分には関係ありませんか?

こんなグローバルな時代で誰もがすぐ繋がれる時代に、自分の関係ない出来事なんてないです。
あなたが使っているサービス、ものは、誰か遠くの人が間接的または直接的に関わりあなたの元に届いています。金を払っているんだから、というのはどんどん世界をドライな関係にする推進力になってしまいます。

当事者じゃなくても、まず正確に情報に触れることが本当に何よりの助けです。「分かりやすいSDGs」とか「10分でわかる政治」とか、そんなエッセンスからのパンクズみたいなのに触れないでください。それもあなたが考えることを忘れさせるものだからです。
どうか、考えるきっかけになればと思い、この作品には実際の問題を取り上げました。誰かの助けになれればと思います。

●2023年6月
2023年6月から猛スピードで今までの情報を整理する期間になりました。構想を練って、文字に起こしていく。コールドスリープを中心とした救出劇にしようとして、『涼月の霜』というタイトルにしました。ただ、書き進めていくうちに、これは、死も受けとめてでも世の中を変える学生団体ヘルメスと、全てを忘れ現実から逃げるコールドスリープという二項対立の話だなと思い直したのです。
そして、『理性と忘却』というタイトルが生まれました。タイトルが決まったら、方向は定まり、今の内容にかきすすむことができました。

●まとめ

現実問題は考えれば考えるほど苦しくなる。
頭を使えば使うほど、逃げ道がないように思える。
じゃあ、その問題を忘れるべきなのか。
そうとも言えない。それで苦しんでる人もいる。
その理性と忘却の対立が、
この世の中には多くあると思ってこの小説を書きました。

麗蘭は作中では肯定的に捉えられていますが、何十年も周りを振り回していることには変わりません。
間人は作中では黒幕のようなキャラクターをしてますが、死ぬか死なないかにおいては彼の行動は肯定的に捉えられます。
何が正解かなんて本当にわからないです。
だから、一人ではこの問題は変えられないんです。
一人一人の力が集まって、何をするべきなのかと、考えられるようになることが、この作品に込めた僕の願いです。

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