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安保闘争と2020年東京オリンピック

今の学生がことごとく青春や夢を奪われているのを見ると、経験してもないのに戦時中とオーバーラップしてしまう。
大人のエゴで始めた戦争は、庶民から日常生活を奪い、傷跡だけを残した。
とりわけ、親元を疎開という形で離れることになり、出征という形で親を奪われた子ども達のダメージは大きかったのだろう。

その子ども達の怒りが、1960年の安保闘争に繋がっているのかもしれない。
日本史の詳しい事はわからないが、当時の「学生」がデモ隊の中心であったことを考えると、彼らはまさに戦時中に子どもであった世代である。
その時の怒りが、「あの時の敵あり自分たちからいろいろなものを奪っていったアメリカと、これから仲良くしていこう」という大義に向けて爆発したのかもしれない。

SNSを眺めていると、学生達の怒りがダイレクトに伝わってくる。
修学旅行がなくなった、部活最後の大会が中止になった…挙げればキリがないくらい、悲壮感に溢れている。
幼児達には保育者の顔がマスクで見えず、エンターテイメントに触れることもないまま成長していく。

この怒りや経験が、オリンピックに向けられ、将来的はもっと大きな渦となっていくのではないだろうか。
ちょっと前まで「オリンピックはこのままだとヘイトの対象にしかなり得ないなぁ」と漠然に思っていたが、ここ数日彼らの悲壮的な声に触れるにつれて、自分が明確なオリンピック反対論者になっていくのを、身に染みて感じる。

子ども達の青春を奪ってオリンピックをやろうとする。
この考え方は筋が通っていない。
違約金とか一大イベントだからとかそんな事はどうでもよくて、単純に「筋が通らず説明がつかないことを何故やるの?」という疑問がフツフツと湧いてくる。
この問いに明確に誰も答えられないようであれば、もはやオリンピックに意味も大義もない。

前の記事でも書いたが、こういった状況下でのオリンピック開催は、スポーツの衰退を招くだけだ。
子ども達がアスリートを見たときに「ああ、僕も私もああいう選手になりたい」と思うだろうか?「自分は大会も部活もなくなった。なのに何故あいつは大舞台で競技ができているんだ?」という疑問や怒りが湧くのが自然ではないだろうか。
アスリートやオリンピアンは本当に夢を与えることができるのだろうか?

すべての娯楽は小さな日常の積み重ねの上に成り立っているのであって、それが担保されないのであれば、オリンピックなどやるべきではない。
そこに政治的な右も左もなく、筋を通すかどうかなのであると思う。

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