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娯楽の犠牲の上に成り立つ娯楽

緊急事態宣言も3度目。
ここまで来ると流石にうんざりするというか、最近の諸々もあって協力するマインドには正直なれない。
国民にお願いしておきながら送別会をしてしまう国家公務員や政治家、ワクチンを廃棄するという信じかたい自治体の所業など、こういったことが協力マインドを奪っている。

その最たる例に挙げられるのが、オリンピックだろう。
今回の緊急事態宣言の時期を見ると、やはりというべきか、オリンピックを見据えたものののような気がしてならない。
つまり、感染者を減らすというのは表向きの理由であって、その根底にはオリンピックの影がちらついているということだ。
そのスタンスはいわゆる政治的リーダーに位置付けられる人たちのスタンスから滲み出てしまっている。

こういった見え透いた意図がある中で、緊急事態宣言に協力する人間がどれくらいいるのだろうか?
1回目の時は、ウイルスがどういったものかよくわからない状態だったし、マスクも行き渡ってないということで、その実施には明確な理由があった。
少なくとも「オリンピックをやるため」といった観点ではなかったはずである。
そうでなければ、あのような全国を巻き込んだ宣言にはなっていなかったはずだ。
ある意味で日本全国が等しく警戒感を持っていた、もしくは持てていたということだろう。

個々人の娯楽が奪われてオリンピックという別の娯楽が成り立つ。
このような構図だから、オリンピックへの反対意見がどんどん増えてくる。
「機運の醸成を」といったバカげた話があるが、娯楽を奪われた社会で、別の娯楽の機運が盛り上がるはずがない。

ここが戦時中とは決定的に違う。
戦時中は国民が戦争の機運を盛り上げた。
だからいろいろなことが我慢できたし、「欲しがりません勝つまでは」なんて標語もできた。
ある意味で社会の意識は「いかにして戦争に勝つか」に集中していた。


しかしオリンピックはどうだろう?
みんなで「オリンピックやってほしい!やるべきだ!」という方向性になってから決まった話だっただろうか?


反対に、このままだとオリンピックという概念が「ヘイトの対象」になってしまわないだろうか?
元々はアスリートの最高峰の祭典であったものが、今ではあらゆる犠牲に成り立つ欺瞞の祭典に成り果てている。
特に犠牲となっている子供たちが「オリンピックを目指そう」という気持ちになるとは到底思えない。
今、子供たちが見ているオリンピックというのは、大人の醜い利権が絡み合った単なるお祭り騒ぎだろう。
自分たちの楽しみや青春を奪ったという負のイメージが染み付いたものを、真剣に目指す者が現れるだろうか?
だとすれば今回のオリンピックは、あろうことかスポーツの衰退のトリガーにもなりうるのだ。
このことを、スポーツ界の人間は真剣に考えるべきだと思う。

今日、首相や都知事の愚策が目につき、毎日心底腹が立つのだが、よくよく考えると、こういった無能なリーダーを選んだのは我々国民である。
どういうことか、つまり選挙の結果なのだ。
自分たちが耳障りのいい言葉に騙されて、気づいたら茨の道を進んでいたのである。
これまでの森友問題とか学術会議の問題は、国民の生活には直結しなかった。
別に森友問題が取り上げられようが学術会議で誰かが任命されなかろうが、日常には関係なかった。
だから、特に苦しみも感じなかったし、政治にはいつまでも無関心でよかった。

しかし、今回は違う。
政治家の一挙手一投足が、ダイレクトに日常生活に結びついている。
令和の禁酒法も、混雑を助長させるだけの電車の減便も、テレワークというだけで実行的な政策を取らないことも、全部日常に結びついている。
だからこそ怒りを感じるのだ。
どんなに政治に関心がなくても、影響を感じざるを得なくなる。

だからこそ、自分は次の選挙もちゃんと行こうと思うし、これまで行かなかった人も「誰のせいで今の世の中になっているのか」を考えながら選挙に行ってほしいと思う。
もちろん、骨のある人は立候補しても良いだろう。
「今の世の中って誰のせいでしたっけ?」とスローガンを書くだけでも、意外といい線いくのではないだろうか?

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