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空席。

隣の席に、人が座らない。僕にとって、これは日常茶飯事です。

東横線の座席にちょこりと座っていると、ぽつぽつと人が乗車してきて気づけば満員電車になっていました。吊り革に掴まる人がこんなにもいるのに、僕の右側はぽっかりと空いたまま。英語の授業、黒板に書かれた単語のスペルが間違っているのに誰も指摘しない。気づいているのに、手を挙げる人はいない。そんな感覚。僕の隣が空いていることは皆知っているのに、座る人はいない。咳払いするふりして、もぞもぞと口を覆い、こっそり口の臭いを確認。下を向くそぶりで、体の臭いを確認。そしてゆっくり目を脇にやって、右隣の座席に汚れがないか確認。いずれも問題なし。またか。また、俺の隣に誰も座らないのか。

初めて隣が空きがちなことに気づいたのは、高校生の時でしょうか。仲の良い友人と、学校帰りに東横線で並んで座りながら談笑していました。大声でわいわい騒いでいた訳でもない。単調な日常に通奏低音として流れる漠然とした将来の不安を揉み消すように、いつも通り訥々と、だが心地よいリズムで会話を楽しんでいた最中。女子高生が目の前のドアから乗車してきて、空いていた僕の左隣に腰掛けようとしました。僕が少し身を右に寄せた、その時。何かに気づいたように彼女はハッと顔を上げ、座り掛けていた腰を再び浮かせ正面の席にスタスタと移動したのです。え、なんで??? 正面に腰掛けすっくと背筋を伸ばす女子高生。呆然とする自分。笑いを必死に咬み殺そうとする友人。彼は抑えきれないニヤニヤを携えたまま、僕に「まぁ、うん、しょうがないわ」と声を掛けました。「いや何のフォローにもなってねぇわ!」と返すこともできず、ただただ頷きました。

恐らくこの日がきっかけだと思うのですが、それから隣に人が座るかどうかに意識的になるようになりました。そして気づいたのが、隣になかなか人が座らないという事実。そして、あの女子高生のように座りかけて席を立ち移動する人も結構な割合で存在するという事実。バス、電車、映画館。場所を問わず頻繁に隣が空きます。皆そうなのか? 思い込みか?? いや、それにしても多すぎる。僕の何がそうさせているのか。いくら考えても分かりません。

もしかすると、何らかの超自然的な存在が「お前は本質的に孤独な存在なのだ」と僕に語りかけているのではなかろうか。目に見えない孤独を具現化し、「ぽっかりと空いた電車の席」という表象を生み出しているのではなかろうか。この文章を書きながら、ふとオードリー・春日さんのツカミが頭に浮かびました。「春日のココ、空いてますよ」。あれはもしや、「隣が空いている人間」として自分を語ることで「孤独な存在としての己」を暗に公にしているのではないか。邪推だったら、すみません。

悲観的になっている訳でも、卑下している訳でも全くありません。ただ、俺は隣に人が座らないタイプの人間であるというだけの話。こんな広い世界なのだから、同じタイプの人もいることでしょう。隣に人が座らないタイプの人間が集うイベントを開くとしたら、立食形式がいいのかな。そんなことを考えています。

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