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童貞が世の中を退屈にし、退屈な世の中は「普通」を「普通じゃない」ものにする。

童貞とは、性にまつわる特性を示す言葉ではない。この世の中に対し、情報知覚的に《挿入》していない(参画していない)人の比喩である。
知らないということが、いったいどういう状況なのか、何が問題なのか、明確にさせてくれるのがこの本だ。

異質的存在として写る著者だが、異質という存在を「異質」という言葉によってゾーニングすることは、全く問題がないことなのか?

異質だとゾーニングするのは、《ゾーニングしなくてはならない世の中がある》ということでしかない。これは、はっきり言って問題であると思う。特徴のある人種を排斥して効率の良い世の中を作るということは、もはや人工淘汰と言える。異質的存在が、さまざまな事象の《調味料的存在》になる可能性は、果たしてゼロなのか。

著者の村本さんが全体を通じて痛烈に非難することは、《普通》を《普通じゃない》に変えてしまう人間の存在であると指摘する。

世間童貞が、インターネットのインスタントなシミュラークルインフォメーションに晒され、自己に内在する乱雑に積み重なった知識に満足しながら日常を過ごす。その知識がインスタントなものである限り、それを情報として受け取る我々は、高性能を装った《ロボット》だ。知識と知識を結びつける知恵や見識を持ち合わせない、《ロボット》の完成である。

そんな世間童貞は、インスタントではない情報に触れることにより即時的反応を示すこと、またその反応自体がインスタントでしかないことも特徴だ。世間童貞が増殖した今の世の中は、有りとあらゆるモノに対して丁寧に注意書きを記さねばならず、それによって説明しなくてはいけない事象や物が増加し、閉塞感を増強する効果を持つ。

インターネットによってすべての人が享受している《自由》が、もはやそれによって《不自由》が成立していることに気づかなければならない。そんな世の中は、非常に退屈なものとなることは避けることができない。

世間童貞という存在が増え、退屈を見兼ねた彼らは、世間の《普通》を《普通じゃない》に変貌させるよう行動する。それにより、インスタント世代の人々は《普通じゃない》ものに対してもインスタントに慣れ親しんでいくことで、無意識的な童貞が無限増殖することに繋がっていく。その末に、もともといた世間童貞は《新たな新生世間童貞》を産む親と化すのである。そして、この輪廻は繰り返される。

本著を読むことで、私自身が《無関心童貞》だったと思い知らされることとなった。世間童貞を作ることに加担していた事実にただ反省したい気持ちにさせられた。

世間に存在する何かを《知る》ということは、ただ単に知識を知る(インスタントに知る)ということではなく、誰かの《痛み》を実際に見聞きして、咀嚼し、自身で解釈し、その経験を自己内部に落とし込むことで、「どのように脱童貞していくか」というプロセスのことである。

インスタントな情報に流されて満足する、自慰さんにはならぬよう、心がけたいものだと改めて感じた。

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