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小さな疑問

 まだこどもだったころ、あることにすごく関心を持っていた。それは戦時下にいたひとたちの暮らしや気持ちのことだった。そのころはまだ先の戦争は完全なる悪であり、まちがいであったという空気が充満していた。そんななか、こどもながらに、どうしておとなたちはなぜまちがったことをしてしまったのかという疑問を持ったのだろう。
 戦争なんてしたくないと思っているひとたちがこれほどたくさんいるにもかかわらず、なぜそれを止めることができなかったのか。いのち張って抵抗したひとのことは武勇伝のように語られても、それ以外のじつに「おおくのひとびと」は、そのときどんな生き方をして、なにを考え、感じていたのだろうと思っていた。
 それは素朴な、ほんとうに素朴な疑問だった。だれだって殺したり、殺されたりするのはいやなはず。それを勇んで向かう、向かわせる、その時代の実時間とはいったいどのようなものだったのか。じぶんがその場にいたら、どうしていたのだろうかと考えたりしていた。さらにいえば、じぶんはそれを止められるとすら思い込んでいたふしがあった。
 それがやおら、おおいかぶさるように、はっきりしたかたちとなってやってきた。年端もいかない自分の小さな疑念が、理屈などではなく、肌に感じる気配としてまとわりついてくるのを、いま、はっきりと感じる。
 それは数年まえから起こっていた。ひとは、こうしてじわじわと「向かっていった」のだなという、そんな感覚におそわれだした。疑似ではあるものの、昭和の戦時下の時間を追体験しているような錯覚に、なんどもおちいった。
 大きな古い池にいるヌシのようなそれは、気配だけにとどまっていた。けれどもいま世界中を席巻している新型ウイルスによって、事態はいっぺんした。池の底からヌシがあらわれたのである。ほんとうにいるのかといぶかっていたヌシが、そのすがたを見せたのだ。
 いま目のまえで、ひとびとが「向かっていく」、そのながれといきおいと空気を感じている。真摯なよびかけもはげしい怒号も悲痛な嘆きも、どこかよそよそしい。すくなくともぼくのみみにはとどいてこない。大きく地殻が動き、そのうえをたくさんのひとが叫びながら行き交う。それをただぼうぜんとながめているばかりだ。そして、ああこれが、ちいさいときに感じた戦時下の空気と暮らしなのだと感じている。あたかもタイムスリップしたかのように。ちょっとした感動すら覚えながら、この茫漠とした荒野に立っている。
 新型ウイルスが、はからずも連れてきたヌシ。はたして自分はこの状況下になにを感じ、どういう行動をするのか。懸命に問いかけるのだけれど、おなかのなからは、はっきりしたこたえが返ってこない。
 このままおおきな波にさらわれていくだけなのだろうかと、戦時のひとびとをやみくもに非難したことを少し後悔しながら、それでもこの無力な腕をぐるぐるまわしてみようと思う。

 

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