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「白鍵と黒鍵の間に」

1988年といえば、長いこといた大学を途中で辞め、映画の現場をガムテープやら両面テープをウエストバックにぶらさげてヒーヒー言っていたころだ。
大学のジャズ研には3年ほどいた。あまり熱心ではないうえに、金が貯まると2ヶ月単位でアジアの国にでかけていないことが多く、覚えていることもたくさんはない。

増尾好秋さんがふらっと音楽長屋の部室に現れて、学生たちとセッションをしたときのことは印象深い。あのときの「アナザーユー」は鮮烈だった。
映画の撮影でエキストラ出演したこともあった。「蜜月」という、たしかATGだったと思う。ジャズ研のなかでコンボを組んで部室で練習しているシーンだった。佐藤浩一がはいってきてちょっとしたやりとりがあった。
ずいぶんあとになって、その話をしていたら、横から撮影監督の笠松則通さんが、「それ、オレがフォーカス送ってたよ。」と言ったのには驚いた。

もうひとつたいへん記憶に残っているのは、南博さんだ。ちょうど部室に向かおうとプール脇を歩いていると、同期が走ってきて、「すごい新入生がはいってきたぞ。いま部室で演奏してる。」とただならぬ興奮だった。あわてて部室にはいると、先輩もふくめ何人もの部員が、新加入の南博さんの演奏に聴き入っていた。

ボロいアップライトを、まるでモンクのように叩きながら叙情を奏でるといったらいいのだろうか。とにかく肌にびしびしと感じるピアノだった。
新入生とはいっても、某音楽大学に在籍していて、歳もぼくよりひとつ上だった。
南さんは当時からものすごい読書家で、ジャズのことというより、本を通じて交流があった。

あるとき、南さんが通う音楽大学の文化祭で演奏するメンバーにまぜてもらった。当時は音楽大学にジャズを理解する風土は微塵もなかった。もちろん専攻科もなければ、むしろやってはいけない音楽ジャンルだった。
そのかたくるしい音楽大学の文化祭。ジャズをやるといったら許可が下りない。南さんは団体名を「童謡研究会」とした。
場所はたしか校舎のエントラスあたりのひらけたところだったと思う。十数人の楽隊は最初だけ童謡のテーマを演奏したが、すぐにフリージャズになる。そういう取り決めだった。大人数がそれぞれに勝手に楽器を奏でて、大きな騒音をつくりだした。どれくらいの時間だったのだろうか、ギターの弦を激しくこすりながらも、完全にまずい事態になっていることはよくわかった。

演奏が終わり、バンマスの南さんはにこやかにメンバー紹介までしてのけた。ぼくたちは逃げるようにして去ったのだろうか。そのあとの記憶がまったくない。
いずれ「童謡研究会」は、由緒ある音楽大学にフリージャズを響かせたということで、たいへんな問題になったと思うが、そのあたりの顛末はうかがっていない。

当時、ジャズ研のピアノのひとたちの何人かは、アルバイトと称して銀座の高級クラブで演奏をしていた。南さんもそのひとりだったと知ったのは、のちに彼が「白鍵と黒鍵の間に」という、ものすごくおもしろい本を上梓したときだった。

ジャズを志す若きピアニストが、銀座でお金を貯めてボストンへ留学するまでが、まさに南さんのピアノのように、ごつごつと、しかし流麗なる筆致で語られる。
1980年代後半の銀座の、おそらくいまでは想像ができない異常な喧騒と不条理のなかで、南さんは一切の思考を停止してひたすらピアノを弾いた。そしてそのあわいに不意に湧いてくる「ぼくはいったいなにをしているんだろう」という疑問。その小さな問いかけがボストンへの切符になった。

南さんの書くものは、まさに描くものだと思う。映像がいやがおうにも浮かんできては匂い立つ。
「白鍵と黒鍵の間に」を読んだときも、これは映画になるといいのにと強く思った。その気持ちはずっと持っていた。

そして素晴らしい製作陣、キャスト、スタッフで「白鍵と黒鍵の間に」が映画になって上映されている。
銀座は寓話の舞台として蘇り、儚くも美しいピアノが静かに流れる。1988年の年末、あのときの自分のなかにあった焦燥感を少しだけ思い出した。

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