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私と「私」

どうも。らいすです。

諸事情により人生語りが難しくなってしまいました。

最後の記事からは割と平和な人生でした。現在進行形で平和ですお陰様で。あ、お金の管理が下手なので金欠生活はよくしています。笑

しかし今までの波乱万丈の人生を生きて来て私がどう変わったか、考え方、人生観などにフォーカスして記事を書いていこうと思います。

小さい頃は正義の味方で、リーダー的存在に自ら立候補してまでなるような子供だった私は、中1の転校を気に一気に引っ込み思案な子供へと変わっていきました。一旦は全てがどうでも良くなったりもしましまたが、グレたりすることはありませんでした。

怒りに任せて非行に走って親をさらに困らせてどうする、自分は大人になったら貧乏から抜け出せるように勉強だけでもちゃんとしないとと、子供ながらに思っていました。

常に自分よりも家族優先で物を考えるようになり、自己犠牲を厭わない性格へと気がついたらなっていました。私が悪いことや間違ったことをしたら家族が悲しむ、私が頑張って何かで成功すれば家族に楽させられる。こういった考えをベースに大きな決断はしていました。もちろん日々の小さな決断は自分の意思です。しかし将来だとかの決断になると、いつも家族のことを考えて決めて来ました。

そして自分本位な決断じゃない分、何事も続かなかったのです。私が成し遂げた、頑張ったと自信を持って言えることは本当に英語の勉強くらい。いろんな事にチャレンジしましたが、自分がやりたいからではなく、これをすれば将来役に立って、家族に楽させられる。または格好つけられる(笑)これがベースなので、自分では自分の意思で自分のやりたいことをやっていると思い込んでいます。しかし本当はそうではない。

私はずっと自分に嘘をついていた事に気がつきました。じゃあ自分が本当にしたいことってなんなのか。家族のことを一切考えず、自分だけのことを考えた時、私は何がしたいのか。

これが分からずに長いこと悩みました。

悩みに悩んで、散々悩み抜いた挙句、私の頭の中は、自然と「死」を意識していきました。

この「死」の意識ですが、死にたいという意味ではありません。

人間はいずれ誰しもが死ぬ。それなのに何かで成功したり、お金を貯めたり、家族を作ったりとみんな何かの目標に向かって一生懸命生きています。でもなんの為に?どうせみんな最後には死ぬのに。死んだら何も残らないのに。なんの為に頑張るのか?なんのために生きるのか?生きるとはなんなのか?

高校生の頃からこんな事を考えるようになりました。この頃の私の口癖は、「やりたい事があるなら迷わずやらないと。明日死ぬかもしれないんだから。」よく友人に言ったものです。

こうして私は「将来」について考えるのを嫌い始めました。どうせ死ぬのに、将来を見据えて何かに一生懸命になるのは馬鹿馬鹿しいとさえ思っていました。今が楽しければそれで良い。明日のことは明日が来てから考えたら良い。明日は来ないかもしれないのだから。と。

逃げでした。

生き甲斐が見つけられない私なりの逃げ。

しかし何をやっても続かない。仕事も趣味も何もかも。どうしてこんなにも何も続かないのかと、それでまた悩む日々。どうせ死ぬのに意味ないという考えは長い事私に付きまといました。

どうせ死ぬのに。という事を考えるうちに、人は死んだらどうなるのか?について、徐々に考えるようになっていきました。

ある日、私は朝仕事に行く支度をしている自分を客観的に見ている「私」に気がつきました。他人を見ている様な、でも確かに自分で自分を見ている。鏡越しではなくて、でも幽体離脱とかいうぶっ飛んだ話でもなくて、「私」は私を見ていました。とっても不思議な感覚でした。しかしこの感覚がなんだったのかが理解出来ません。

あー今日も起きて、歯磨いてるわー私。着替えて、髪の毛セットしてんなー私。今日もつまんない仕事行くんだなー私は。という感覚。なんとも説明が難しい。

ここから私は「私」と「死」を結びつけて考える様になっていきました。

人間は死んだら、本来なら肉体は自然へと返るはず。ではこの「私」、肉体ではないこの「私」はどこへ行くのか?「私」って、この肉体なのか?あれ?この私の脳内で考えている事を「私」はどうやって見ているんだろう?私って、なんだろう?寝ていても夢を見ているこの「私」は脳なのか?はたまた違う何かなのか?ん?夢を見ていない寝ている時の私はどこにいるんだろう?あれ?死んでもこの「私」ってもしかして生き続けるのか?

この「私」を発見した事で、私の考えは大きく変わっていきました。この「私」の存在がなんなのか分からないけど。意識ではありません。私が意識している事も「私」は見ているのですから。脳でもありません。頭の中で思い描いている事も「私」は見ているのですから。

しかしこの「私」は凄いパワーを持っている事に気が付きました。この「私」次第で、肉体の私も意思もどうとでもなると。魔法の様な話ではなくて、「私」次第で意識や考え方を良い方向へ変えられる。そう思う様になりました。

なんか変な宗教の勧誘みたいになって来ました。笑

いろんな事があり、たくさん辛い思いをしました。しかし今までの全ての経験無くしては今の私はありません。小さい頃から私を「私」はずっと見て来たのです。それでも良くやってるじゃないか私。と「私」だけが認めてくれるのです。辛い事があっても、これは絶対に私の為になるんだから頑張れよ私!と「私」は私を励ましてくれます。

よく漫画やアニメで頭の中の悪魔と天使が戦っているのを見ますが、そんな感覚です。しかし頭の中の悪魔と天使ではなく、私を客観的に見守る「私」と私。今日は仕事行きたくない。と私が思っても「いやでも仕事サボったらあとで罪悪感で気分悪くなるでしょ」と「私」が諭してくれます。今日は筋トレしたくない。と私が思えば「たまにはいいんじゃないゆっくりしても」と「私」はたまに優しくしてくれます。

この「私」を発見し、対話をする様になって、いろんな肩の荷が降りたのを感じました。私のことをあまり考えず家族を優先して来た私は自分のことを後回しに考えがちでしたが、私だけのことを気にかけ、私だけを大切にしてくれる「私」。この「私」のおかげで今までの人生これでよかったんだなと思える様になりました。

そして、「私」は私の幸せを願っているので、無理に家族を喜ばせようとせずに、「私」が喜ぶことをすれば、私も幸せだという事に気づき、私が幸せなら家族も幸せなのだと「私」が私に気づかせてくれました。

生き甲斐は、自分が幸せになることをすることだとわかりました。

それはその時その時で変わるかもしれませんし、一つの生き甲斐を見つけるかもしれません。でも「私」は私が幸せなら幸せで、私も「私」が幸せなら幸せな事に気づいたのです。

「私」は私であり、私は「私」なのです。

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