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休日を襲う「俺って何がしたいのかなぁ」という問い

ぼくにとって30代というのは、20代で得た知識や技術が整理されていく年代なのかもしれない。20代は治したいこと、伸ばしたいこと、楽しいこと、楽しくないこと、合うやり方、合わないやり方にピントを合わせていく年代だったなと振り返ってみて感じた。病名も効果的な薬もある程度わかっていれば、30代では必要な薬を選んで、継続的に飲んでいかねばなぁと思う。去年子供が産まれて、自分に与えられた時間がぎゅっとなり、計量スプーンから砂糖を擦り切るように、無駄なことがこぼれ落ち、必要な分だけが一日に割り当てられていって、気付けばルーティーンが形成された。これが「整理されていく年代」と書いた理由だ。だが問題は休日だ。

「俺って何がしたいのかなぁ」

みたいな問いを休日にすることがある。この時は決まって、心がネガティブだ。「平和な日常、それだけで幸せじゃないか」という前提をこの時は忘れている。朝は平日のルーティーンを行うのでいいのだが、問題は朝以降だ。子供の成長に合わせて、自分の時間は変動する。あまりない時もあれば、ふと生まれることもある。奥さんに頼んで、1人の時間をもらったりもする。もちろん奥さんにも1人時間をお返しする。ただ作ろうと思って生まれた時間ではなく、突如降り注いだ隙間の話である。

これは子供が生まれる前もそうであった。空き時間があって、意欲もあって、ただ目的がなく「俺って何がしたいのかなぁ」と棚に並んだ本のタイトルを眺めたり、Noteを書いてみたりするのだが、決まってその時はジタバタ考えて終わるし、ポジティブに変わったためしがない。単純に本を読んだりゲームしたりして、空き時間を埋めたい訳ではない。何か役割が欲しくなるのだ。使命感が欲しいのだ。興味がほしいのだ。「昨日雨降って歩いて帰ってきたから、自転車を取りに行けないかな」というお願いで、些細な役割ができただけでも、うれしいのだ。

悩んだら、とりあえず外に出るといい。

これは今考えられる、問いに対してのアンサーだ。何がどうあれ、家の中だと塞ぎ込んでしまう。赤ちゃんを連れて行ってもいい。カメラを持っていくと尚いい。どこに行くかの目的なんて外で考えればいいし、いや、外に出ることが目的なんだから、もういいじゃないか。悩んだら外に出て、外に意識を向けよう。自分に意識を向けすぎると、あまりよくないのだ。





本当はこれで終わりでよかったのだが、書きながら思い出した過去がある。数年前、絵画教室に2年ぐらい通った。デッサンが好きで、水彩画とかに変更してもよかったのだが、ずっと鉛筆を握っていた。ぼんやり全体のボリュームを描いたり、直線を引いて軸やバランスを確認したりして、輪郭線になかなか手を出せずにいる状態というのは、歯がゆいのだが、ほどよいストレスなのだ。ランニングでいい感じに息が切れている、ぽかぽかした状態と言える。輪郭線に辿り着くまでの色んな線や面を描いている状態は、20代の自分のあり方に近い。まだデッサンは未熟なので、本来描かなくていい線や面を描いてしまって、キャンバスは汚くなる。ただ描きたいものがそこにあると、時間をかければ、輪郭線が無くても、絵は浮かんでくるのだ。30代は20代で描いたぼんやりした像に、丁寧に輪郭線をのせていく。そんな作業のような気がする。今の自分が輪郭線の上を平均台のように歩きながら、20代の時に描いたものを首を振りながら見て、あれは無駄だったなとか、これはこの輪郭線を引くために必要だったな、とか。この作業は自分にばかり意識が向いていると、足元だけ見て、気づいたら全体が歪んでいるだろうから、外(環境や他者とか)に意識を向け続けて、全体像を確認しながら、一歩一歩丁寧に踏みしめていきましょう。そのためにルーティーンも必要になってくるよね。という話でした。



この先は今の平日のルーティーンの記録である。ぼく以外は得しない内容です。

起床

①筋トレ
スクワット60回、腕立て25回
【一言:目的は運動するとイライラしづらくなる気がするため。】

②読書
【一言:アガサクリスティーの「そして誰もいなくなった」を読み終えた。久々のミステリー小説に触れて、最高だった。まさかなぁ。】

行きの電車内
③Noteを書く
【一言:書くのが好きだということを、忘れてはならない。】

仕事

帰りの電車内
④3DSの「ものすごく脳を鍛える5分間の鬼トレーニング」の「鬼耳算」をやる
【一言:ワーキングメモリーの低さが色んな問題の引き金になっていることがわかり、それを手軽に伸ばすのに1番良さそうだったのでやる。】

帰宅

就寝前
⑤「すぐできる自己整体」という本を基にストレッチ
【一言:腰痛改善。】

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