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ラルゴに向ける熱量で、誰かと繋がること

ラルゴの全盛期というのか
1番運動量が多く元気が有り余っていた頃
彼は、立っている私の顔まで飛び付いてきたし
旦那の肩に顔を乗せるぐらいには
ジャンプすることができた。

散歩中、何かに驚くと
文字通り「飛び上がって驚く」ので
飛び付かれたこっちも
脅威のジャンプ力を見た周囲も
一緒になって驚くことになる。

何度も思い出に蘇ってくる
その場面は鮮明に繰り返されているけれど
それが実際に起きた通りのことかといえば
少し違うのだろうと思う。

それは、ドラマや映画の本編で
目を引く映像だけを切り合わせて
編集動画を作り上げるのに似ている。

私はラルゴのことを丁寧に書いた分だけ
起きた事象から離れていくことを承知の上で
思い出を手繰り寄せるように書きだして
ラルゴを悼んでいる。

たとえノンフィクションだとしても
作家の目を通した言葉の数々は
様々なエフェクトがかけられた
フィクションだ。

伝えようと書くことには、限界がある。
私が書いて伝えようとしているのは
ただただ、自分の思いの熱量だ。



ラルゴは寝相が悪いだけでなく
よく寝惚けて吠える犬で。

小さなドーム型のペットベッドに入り
最初は丸くなって寝ているものの
暑くなるのか、下半身をはみ出させて
眠ることが多かった。

そればかりか、仰向けになり
後ろ足を突き上げる寝姿もあって
この犬はどういう寝相をしているのかと
何度呆れたことだろう。

夜中に奇妙な鳴き声がするので
旦那と慌ててケージを見にいくと
ラルゴは股をおっぴろげ
宙に伸ばした足をビクビクさせながら
フォン、フォンと寝ぼけて吠えていた。
 
「何だよ、この生き物…」

安心したと同時に気が抜けたのは
恐らく旦那も同じだったのだろう。
声が若干、不機嫌な感じだった。

ラルゴは目を覚ます気配もなく
相変わらず後ろ足をビクビクさせながら
尻尾まで振り始めた。

何だか見えている下半身だけが
別生物のようにも見えるな
そう考えていたとき

「…キンタマ星人」

思っていたことを的確な一言にして
旦那がボソリと呟いたのを聞いて
私は、盛大に吹いた。

キンタマ星人は、しばしば出現し
私たちを笑わせてくれた。



もし、この時の動画があれば
数秒の短いもので充分だったろう。

キンタマ星人と称したラルゴの姿勢も
間違いなく分かってもらえると思う。

けれどもスマホを常に携帯しない私は
決定的瞬間に動画や画像を残すのではなく
固唾を飲んで見守ってしまう質だ。

あの姿や場面を伝えるための手段が
私には言葉しかない。

旦那や子どもは、文章ではなく
絵や画像・動画で伝えることをしている
(そして目指している)人たちで
記憶のラルゴを描いてとお願いすれば
サラサラと描き上げるに違いない。

私が何百文字も掛けて説明することを
1枚の絵で、いとも簡単に分かりやすく。

2人のスキルを羨ましく感じるし
映像や絵には、敵わないなぁと思う。

それでも、追いかけている光景に
私の言葉を少しでも近付けようとするのは
愉しい作業だと思っているし
この明確になる工程が好きで書いている。



「一杯のかけそば」という童話は
実話に基づいて書かれたということで
社会現象になるほどの流行になったが
創作だったらしいことと、作者の不祥事とで 
一転バッシングの対象になった。

ブームの火付け役になったワイドショーが
今度は作品叩き・作者叩きに躍起で
街頭インタビューで批判意見ばかりを
流し続けていたのを覚えている。

「感動したのに、騙されました」

そう答えたご高齢婦人の話を聞きながら
創作でも感動したことは間違いないのに
騙されたというのが不思議だった。

作者が実話と偽ったことには
間違いなく多くの人が騙された。
「悪いことだ」というのも理解できる。

けれども書かれた情景を想像し
架空の登場人物に寄り添って
感動したことは事実だ。

あなたは・私は、そういう優しさを信じて
物語の美しい世界を共有したことになる。

書くことの特性上、報道でない限りは
フィクションもノンフィクションも
ぶっちゃけ関係なくて

私の・あなたの感じたことだけが
全てだと思う。



私の文章に「スキ」を押して
共感を表明して下さる方がいらっしゃる。

その方たちのnoteを拝読すると
愛情を注いだペットとの日常だけでなく
別れを書かれている方も、少なくない。

読みながら気持ちが抑えられず
泣いたり、笑ったりして
似たような立場に共鳴している。

自分が創り上げている世界で
お互いを優しく慰めているような
そんなハートが嬉しいのです。

ありがとうございます。

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