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怪しんだスピリチュアルに救われる

「ラルゴは、もう助からない」
感覚的に悟った瞬間が、確かにあった。

もう別れは、絶対に避けられないし
すぐそこまで来ているのが分かって
私はラルゴにとっての最善を想像して
最期の瞬間まで、尽くした。 

私は縁あって神職資格を保有しているが
ラルゴの病気が治りますようにと
神頼みはしなかったし
正直、思い付きもしなかった。

正確には、神社に1度だけ参拝した。
けれどラルゴを助けて下さいと
お願いをしていない。

もう、治ることは叶わないと
自分が確信していたからだろう。

そういう意味で、私は奇跡という
神様の救いの手から零れ落ちていた。

私は、ただただラルゴの最期が
穏やかでありますように、そればかりだったし
結果として、その祈りは聞き届けられた。
間違いなく私の祈りは、真摯で純粋だったろう。

ラルゴは細くなった糸が切れるような最期で
急激な病気の進行からは想像もできない程
静かに息を引き取ってくれた。
それが唯一の、救いになっている。

旦那は神社ではなく近所のお稲荷さんに
油揚げをお供えして、お祈りをしたという。

犬と狐は仲が悪いというのに
「お稲荷さんにお願いって…」と
激しく突っ込みたかったが、言わなかった。

誠実で悪気ない旦那に罰は当たらないだろうし
閉口しながらも、願いを聞いて下さっただろう。
旦那がお詣りしたお稲荷さんに
私は改めて、お詫びとお礼を伝えに行った。

何をどう祈ったのかは聞いていないが
きっと旦那の願いも叶ったはずだ。



西洋医学がだめなら東洋医学に
それもダメならスピリチュアルに
代替医療や療法の類、さらには神頼み。

それらが奇跡的な効果を現すのは
患っている当人や、周囲の近しい人たちが
まだ希望があると、確信を持てるときだと
私は思う。

希望があるうちは試す価値があるし
奇跡が起きる可能性は充分にある。

手術をしない、手術ができない場合は
西洋医学からは見放される形になるが
鍼灸や漢方、代替療法で
治療効果があるかもしれない。

そして【かもしれない】と思えるうちは
快方に向かう状況をイメージして
現実にすることも可能だと思う。

可能性が僅かでもあって信じられるから
一心に縋ることができる。

そういった意味で「神頼み」は
心の中で、どれ程の確信を持っているかが
叶う・叶わないの差になるのかもしれない。

もし可能性が全て潰えたのなら
温かな思い出を残すことや
心残りを減らすことを祈り
時間を使うことだ。

祈りは、必ず届く。



ココナラというスキルマーケットで
1000円のクーポン券をもらったので
占いでもしてもらおうかと思っていたら
ここnoteからの「おすすめの記事」に
アニマルコミュニケーションに触れたものが
上がってきていた。

アニマルコミュニケーションとよばれる
動物の気持ちを聞くスキルがあるそうだ。
ペットの生死を問わずに聞けるらしい。

犬・猫の生態に基づいたものではなく
コミュニケーターが瞑想を通じて
ペットと繋がるという説明は
イタコ的な口寄せと大差なく思えるし
スピリチュアル要素を強く感じる。

それなのに、依頼してみようと思うほど
私はラルゴの死を引きずっていた。

文章だけのやり取りも気楽だった。
顔も名前も知らない人の文章なのだから
外れたところで苦笑するだけだ。

そして、もっとぶっちゃけて言えば
当たり障りのないラルゴの言葉でも
誰かから聞かせてもいたい
そんな慰めを求める気持ちが確かにあった。

まだ若い方なのだろうか
挨拶には「♪」が付けられていて
苦笑が漏れる。

先方には、ラルゴが病気で急死したこと
最期に出来ることが限られていたので
何を思っていたのか知りたいと伝えた。

冒頭には、ラルゴは最期を悟っていたこと
それでも自分で選んだこの家で過ごせて
幸せだったことなど、無難な言葉が並んでいた。

まぁ、こんなものかな。
そう読み進めていると

最後までぼくの側に居て見守ってくれた
最善を尽くしてくれたよ
幸せだったよ 

臨終の様子は一切伝えていなかったのに
そう書かれていた。

膝の上で横たわる、痩せ衰えたラルゴと
側にいることしか出来ないと
泣いてばかりの自分が思い浮かぶ。

走るのが好きだったのでしょうか?
お空で元気に走っている姿が見えましたと
文末にはあった。

散歩で必ず走る場所があったし
家でも喜ぶと、回るように走っていたなと思う。
走るのが好きだったのかは分からないけれど
はしゃぐと走り回る犬だった。 

回答に書かれていたラルゴの言葉は
彼の性格には合わない幼い口調の文体で
ラルゴのイメージとはかけ離れている。

けれども書かれていた内容は
全て適当と言い切れない。
確かにこの人は【何か】と繋がり
ラルゴの気持ちを察したのだろう。

アニマルコミュニケータというのも
形の違う祈りで、飼い主とペットの幸せを
実現しようとしてくれているに違いない。
そう思うと、腑に落ちた。

何よりも自分が、この人の言葉が
ラルゴの言葉であって欲しいと願っている。
それならば、これで充分だ。
私は望んで、ラルゴの言葉を聞いたのだから。

今は、元気に走り回っているのなら
ラルゴは幸せに違いない。

依頼した価値は、あった。



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