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9.11の朝、私は米国軍事施設にいた

「カミカゼ!」

あの朝、同僚のトムが思わず放った言葉だけは20年後の今も生々しく脳裏に響く。

2001年9月11日は渡米11ヶ月をそろそろ迎え、2年契約のジョージタウン大学客員研究員の折り返し地点だった。プロジェクトは陸軍下の研究所である国立首都圏医療シミュレーションセンター(National Capital Area Medical Simulation Center、当時)とジョージタウン大学病院放射線科内の研究グループとの共同研究で、6割くらいの時間はメリーランド州シルバースプリング市内にあるウォルター・リード陸軍医療センター管轄のキャンパス内のオフィスでの仕事だった。

日本生まれ日本育ちだが、高校の時から英語だけ得意科目。24歳で独り渡米してからも仕事での英語は何とかなった。こちらでのテレビや生活経験の浅さから、むしろカジュアルな歓談が厄介だ。社交的な場面では、話が分からなくても周りに合わせて笑う。それで何とか人の輪に溶け込む努力がすっかり習慣化していた。

軍服のトムはひょうきんな男だった。シミュレーションセンターでは戦場での外傷手術トレーニングに用いられるコンピュータ制御のマネキンの管理などを担当していた。私のダイゴという下の名前をもじって、"You go. I go. Daigo!"などと挨拶代わりに冗談を連発し、アメリカでのコミュニケーションの勝手がわからない私に、毎日快活に話しかけてくれた。

そのトムが、時間通り出勤してきた私に「ワールドトレードセンターが...」といってテレビの付いた一室に私を引っ張る。東海岸時間午前9時0分。「やれやれ。またトムのジョークが始まるのか」と思った。しかしテレビには煙がもくもくと立ち上る高層ビルの映像が映し出されている。

「火事?」

何が起こっているのか分からなかったが、トムのいつもの冗談ではないことだけは確かだ。テレビを前にトムは他の同僚と何か会話を続けていた。今思えば最初の飛行機がビルに突っ込んだ話をしてたのだろう。雑談のリスニング力のなさとパニックで、全く状況をつかめていない私ひとり。

テレビの前に立ち尽くして数分後、ユナイテッド航空175便がワールドトレードセンター南タワーに突っ込む。午前9時3分。2回目の衝突は、これは事故ではなく計画的な攻撃であることを多くのアメリカ人に認識させた。それを生中継で見た私がようやく状況を理解し始めた瞬間だった。

「カミカゼ!」

しばらく言葉を失ったトムがひねり出した一言は、アメリカ人同僚と日本人の私が一瞬で状況を理解したキーワードだった。そして双方にそれぞれの苦い余韻を残す共通語だったのだ。20年たった今も。

後記

9.11の前後のことは正直よく覚えていない。あの朝、軍事施設内にいた私は、「ここも危ないから」と家に帰された。オフィスから徒歩15分のアパートのシングルソファーに座って、ニュースをぼーっと眺めていたことだけが思い出される。25歳だった。その後、炭疽菌テロの際には同施設内の郵便ルームからも菌が検出された。幸いそこでの被害者は出なかったものの、日本の新聞にも報じられたので両親を心配させた。ワシントンDCで学生をしていた友人はペンタゴンにアメリカン航空77便が衝突したとき、すぐ脇のハイウェイを走っていたので大きな音を聞いたという話をきいた。機関銃を抱えた兵隊さんにIDを見せてバリケードを抜けてオフィスに入る日常になった。両親をアメリカ旅行に呼んでいたのがキャンセルになった。9月14日、軍事力行使が承認された。テロリズムに対しすべての市民が敏感になり、相互不信、とりわけ外国人不信につながった。断片的なエピソードばかりで全体像はない。

軍事戦略のことは全くわからない私にも、9.11以降の国防戦略のありかたががらっと変わったのは歴然としているし、日常生活の隅々までにテロ後の世界観が影を落としているのは20年たった今も変わらない。でも、先日仕事の集まりで、あの日のテロとそれが自分たちの人生に与えた影響について話題になったとき、アメリカ人であっても実感がわかない若い世代が社会人になって久しいことを思い知らされた。25歳といえば一応の大人。彼らは5歳だった。私は25歳だった。でも私もよく分かっていない。毎日を大事に生きようと思いは強まったが、今になっても包括的な理解はしてないし、特別な教訓を得たわけでもない。けれど重大な一日だったのは確か。記憶が風化する前にあの朝の出来事を書き残しておこうと思いました。20年も経ってしまいましたが。

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