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無職になった日にスピッツファンクラブ(ベルゲン)に入会した

私が初めてスピッツに出会ったのは小学校五年生だった。

当時、毎朝、朝の歌というものをクラスみんなで歌っていた。

学活の時間に、歌いたい曲をクラスメートが次々に挙げた。
全てJ-POPだった。
私は流行りの歌をなんとなく知っている程度だったので、みんなの挙げる曲が、学級委員によって黒板に描かれる姿を眺め
みんなの様子を見て、妥当だと思う歌の時に手を挙げた。

多数決により、曜日ごとに歌う曲は決まり
CDを持っている人が自宅から持参して、先生が録音し、歌詞カードを作った。

 
月曜日が「ロビンソン」、火曜日は「涙がキラリ☆」だった。

Mステ等でおぼろげに知っていたスピッツを
毎週月曜日と火曜日に
歌詞カードを見ながらじっくり歌った。

毎週歌うから
歌詞はすぐに覚えた。

 
一曲まるまる歌うと、スピッツはいいなぁと思った。
「ロビンソン」も「涙がキラリ☆」も普通に好きだった。

 
みんなの投票により選ばれた曲は、ハズレがなかった。
どの曲もよかった。

学期ごとに、歌は投票により変えられた。
別の学期では「夢じゃない」が選ばれ、歌った。木曜日だった。

 
だから、私にとってスピッツは、普通に好きなアーティストで、朝の歌のイメージが強かった。
当時、友達とカラオケに行く際は「ロビンソン」「涙がキラリ☆」「夢じゃない」を歌っていた。

 
 
 
そんな私の世界を変えたのは、高校時代の親友だった。

親友の姉はスピッツファンクラブ(ベルゲン)に入会しており
親友は姉の影響でスピッツが大好きだった。

 
高校一年生の頃、「スピッツ好き?」と聞かれて、「普通に好きだよ。ロビンソンとか。」と答えていた。

 
「シングルが好きなら、是非アルバムを聴いてほしい。アルバム、すごいから。」

 
親友はそう言って私に、5thアルバム「空の飛び方」6thアルバム「ハチミツ」を貸した。
「先にハチミツを聴いてね。」と付け加えて貸してくれた。

私はスピッツを誰かに布教する際、まず「ハチミツ」をオススメするということが
スタンダードだということを
この時はまだ知らなかった。

 
 
私は親友に言われるままに、初めてスピッツのアルバムを聴いた。
「ハチミツ」から聴いたのである。

何これ…!
何これ…………!!

私は「ハチミツ」「空の飛び方」を聴き、録音し、次の日に親友にアルバムを返した。

 
私「スピッツ、ヤバイ!何これ!アルバムすごい!シングルのイメージが強かったけど、スピッツってアルバムだとこんな感じなんだ!」

 
親友「だろ!?だろ!?スピッツすごいだろ!?」

 
私「お願い!スピッツのアルバム、全部貸して!スピッツが他にどんな曲を歌うか知りたい!!」

 
 
私はあっという間にスピッツにハマッた。
アーティストのアルバム全てを借りたいと思ったのは
後にも先にもスピッツだけである。

親友はスピッツ仲間が増えて嬉しかったらしく、快くアルバムを全て貸してくれた。

 
親友はアルバムを二枚ずつ貸した。
今度は発売順に1stアルバム「スピッツ」と2ndアルバム「名前をつけてやる」から貸してくれた。

当時は9thアルバム「ハヤブサ」まで発売されていたので
アルバム9枚
そしてミニアルバム「オーロラになれなかった人のために」1枚
計10枚を私に貸してくれた。

 
私は借りた日に録音して、次の日には返すので
多分一週間で全10枚のアルバムを録音しきったのだと思う。

 
当時はiPodもサブスクもない時代で
ようやくMDが普及し出した頃だった。
私はまだカセットウォークマンを使用していたので
スピッツのアルバムは
全てカセットに録音した。

A面(片面)にアルバム一枚がちょうど録音できたので
A面に1stアルバム、B面に2ndアルバムのように
時系列順にアルバム二枚を一本のカセットテープに録音した。

 
親友からスピッツのアルバムを借りてから、私の通学時間は変わった。

私は毎朝カセットウォークマンにスピッツの何らかのカセットをセットし、自宅を出発した。
自宅から高校までは約一時間で
アルバム一枚を朝通学するだけで聞き終わった。
帰り道はまた約一時間かかるから
帰りにアルバムを一枚聞き終わった。

 
 
スピッツは通学にピッタリ合った。

高校に行くまでの間、徒歩・電車・バスor自転車で移動したが
それらの移動手段にスピッツはピッタリ合ったのだ。

 
他にも好きなアーティストはいたが
私は通学時にスピッツ以外を聴く気が全く起きなかった。
スピッツで朝が始まり、スピッツと共に自宅に帰った。

 
そんな高校三年間を私は過ごした。
私の気持ちは三年間変わらなかったのだ。

 
手帳にはスピッツ「仲良し」や「歩き出せ、クローバー」の歌詞を書いて眺めて
友達とカラオケに行けばスピッツを歌う。
高校時代の友達からメールが届く時は
メール着信音が「空も飛べるはず」
大学時代の友達のメール着信音は「スターゲイザー」に、当時設定をした。
それは今でも変わらないままだ(今はメールしないから、メロディが流れることはないが)。
誕生日プレゼントにもらったオルゴールは「空も飛べるはず」だった。

私はお小遣いを貯めては、チマチマとスピッツのアルバムやCDを買うようにもなった。

 
高校から私を知った友達は
私=スピッツというくらい、私のスピッツ愛は止まらなかった。
例え、布教した親友と私が絶縁する展開になっても
私はスピッツを聴けなかったり、嫌いになることは全くなかった。
むしろ、スピッツを聴くと、親友との優しい思い出が鮮やかに蘇り、やがて色褪せてもなお、私の記憶に残った。

 
 
自宅から大学までは片道二時間で
やはり私は毎朝、そして帰りにスピッツを必ず聴いた。

自宅から大学は、自転車と徒歩、電車を使って行ったので
やはりスピッツが抜群に合うのだ。

 
私が大学生の頃、MDの時代はあっという間に終わり、iPodの華やかな時代が始まったが
私はいつまで経ってもカセットウォークマンを愛用して、スピッツを聴いた。

たまに調子に乗ると、口ずさんでいた時さえあった。
体を揺らしながらノッているのは日常茶飯事だった。

 
スピッツのライブに行きたいな……

 
大学生の頃、私はその思いが強くなっていった。
生でスピッツのライブが見たかった。

 
そんな中、2005年にスピッツが地元でライブをすることが分かった。
ライブ会場は我が家から近い。

行きたい!行きたい!行きたい!行きたい!行きたい!

と、願ったが
チケットはとれなかった。
スピッツはチケットがとれないで有名なバンドなことを
私はこの時にまだ知らなかった。

 
 
諦めきれない私は
ネットをさまよい、定価でチケットを譲ってくれる方を見つけた。
名前は忘れもしない、サード長嶋さんである。

 
サード長嶋さんとは、当日会場で待ち合わせた。
年がさほど変わらない男性である。
それが恋の始まりになることはなく
私達はただチケットをやり取りするだけの淡泊な関係だったが
初めて生のスピッツライブチケットを手にした時
私は大きな感動で胸震えた。
座席は三階で決して良席ではなかったが
会場入りした時、ソワソワキョロキョロした。
三階席だろうが関係ない。
生でスピッツが見られるならば、どこだって私には最高の席だ。

生でスピッツライブを見た時は、ただただ感動した。 

甘ったれツアー地元公演。
それが、私のスピッツライブ初参戦ライブだった。

 
 
私はスピッツ愛を順調に育んでいった。

ファンクラブには入らなかったものの
アルバムが出てはひたすらに聴きまくり
スピッツの楽譜を買い
スピッツの曲をピアノで弾いた。
「楓」は私の唯一弾き語りできるピアノ曲だが
恥ずかしいので、誰かの前で弾き語りをしたことはない。

待ち受け画面は長らく「醒めない」ジャケットだった。
目覚まし音は「猫になりたい」
LINE設定音は「さらさら」

私は何年経ってもブレなかった。

 
 
社会人になってからも、スピッツがツアーをするたびに私はチケットを頑張ってとろうとした。
しかし、スピッツは人気がありすぎて、なかなかとれなかった。

5公演申し込んで全滅

ということもザラで
会場の狭い地元ライブは、他の地方からもファンが来るため
倍率は更に上がった。

 
だからスピッツファン歴が長い割には、私はライブ参戦回数は10回程と少ない。

 
スピッツのチケットは本当にとれなかった。
頑張ってとれても三階席が当たり前で
スピッツライブに参戦したい場合
私は大抵ネットでチケットを譲ってくれる方と交渉した。

老若男女に人気がある国民的バンド。
それがスピッツだった。
会場アナウンスでも、様々な人に考慮や配慮を感じた。
スピッツは手厚かった。

 
 
私の職場は仕事着が自由だった為、私はスピッツライブTシャツで仕事をする日が多かった。
特に気合を入れなければいけない日ほど
スピッツライブTシャツで自分に活を入れたし
場合によってはスピッツのライブタオルも仕事で使っていた。
もはや、パッと見写真だけでは仕事中かライブ中か分からない。 

(仕事で公園散策及び温泉旅行↓)

  
 
高校、大学、専門学校と
まさかの学生生活9年間、私はスピッツの音楽で通学した。
だからこの時期までに発売されたアルバムは発売順、曲順、歌詞をほぼ完璧に覚えていると思う。
シャッフルなんて機能はカセットウォークマンにない。

小学生の頃に父から譲り受けたカセットウォークマンは
元を取り過ぎるくらい大活躍した。

 
 
だが、社会人になり、私は車通勤をするようになった。

私は運転時はスピッツ以外も聴くため、社会人になってからスピッツを聴く量は明らかに減った。
自宅でも様々な音楽を聴く為
社会人時期に発売されたアルバムは聞き込みが弱かった。

社会人になってからも、相変わらず電車移動時はスピッツしか聴かないし
カセットウォークマンが壊れたことで、みんなから大幅に遅れてiPodを手に入れたし
iPodにはスピッツしか入っていないが
電車移動をするのは月に数えるほどだったからだ。

 
 
ちょうど私がスピッツライブに参戦した頃
スピッツは三年ごとにアルバムを発売するようになった。

新作のアルバムを発売するごとに、スピッツは進化した。

「すごい…。」

の一言だ。

 
一般大衆には、「ロビンソン」「チェリー」「空も飛べるはず」辺りのシングルがとにかく有名だし
アルバムといったら「ハチミツ」なのだろうが
スピッツの勢いは止まらないのだ。

 
どのアルバムもカラーやコンセプトがしっかりしていて
曲順が完璧で
一曲一曲の完成度が高く
シングルのクオリティが高いのは当たり前だが
アルバム曲はシングルを超える名曲がゴロゴロあり(シングルも、カップリング曲の方が名曲揃いというか、カップリング曲への力の入れ方がすごい)
バラエティ豊かな曲が並ぶ。

なのに一貫して、【スピッツらしさ】を全てに感じるのだ。
これがスピッツの恐ろしいところだ。

 
スピッツはメンバーが大学の同級生で
大学時代に結成し
メンバーは変わっていない。

デビューしてからしばらく売れない時代があったが
その売れない時代のアルバムさえ
クオリティが非常に非常に高いのだ。

 
王道なアルバムなら「ハチミツ」なので、まず布教するなら「ハチミツ」をススメるが
沼に突き落としたいなら、2ndアルバム「名前をつけてやる」をススメるべきだという
ファンの間の暗黙の掟さえある。

私はミニアルバム「オーロラになれなかった人のために」が大好きだし
どのアルバムも良すぎて
誰かにスピッツをススメる場合は非常に悩ましい。

 
売れる前の時代も
売れてからの時代も
結成から30年以上経った今も
楽曲やアルバムのクオリティは衰えを知らない。

 
スピッツは、そんなロックバンドだった。

 
 
 
2019年。

スピッツは朝ドラ「なつぞら」に主題歌「優しいあの子」が起用され
毎日職場では「優しいあの子」が流れた。
職場でも私のスピッツ好きは有名で
「ともかさん!スピッツ!」と周りが話しかけたり
みんなが主題歌を口ずさんだり、体を左右に動かし
私は感無量だった。

朝ドラ主題歌に選ばれることは、私に大きな喜びを与えた。

 
 
去年は仕事がハードで、私は職場デスクに「ネズミの進化」の歌詞を貼った。
ちょうどねずみ年だし、歌詞が染みたのだ。

 

じっとしていたらたたかれて 素直に進めば潰される

 
スピッツの曲は9割以上をボーカルのマサムネさんが作詞作曲していて
詞のテーマは「性(生)と死」を一貫している。

 
マサムネさんは天才で
メロディは口ずさみやすく、それでいて胸に残りやすい。
歌詞は暗喩を多用し、1フレーズが印象的なだけでなく、解釈は人それぞれというくらい
詞の世界は壮大で、深かった。

  
スピッツの音楽は弱い人やマイノリティの味方のように感じた。
綺麗事や根性論、愛こそ全てのような歌詞は全くなく
ただ隣に寄り添い、悲しみや寂しさを分かってくれた。
それでいて最後は前を向けるように、希望の粒がばらまかれたような歌詞に
私は何度泣き、優しさを分けてもらったか分からない。 

 
2019年秋、ニューアルバム「見っけ」を発売し、ツアー開催を発表した。
前作のアルバム「醒めない」もクオリティが高すぎて、スピッツ友達と「ヤバイ!マサムネさん、ヤバイ!」と語彙力をなくし
スピッツオンリーカラオケをしたり
聞き込みが弱いアルバム強化月間を過ごしたりしたが

「見っけ」は過去最高傑作のアルバムだった。

スピッツは常に最高を更新する。

スピッツ友達と興奮しながら5公演申し込んだが
友達は全滅し
私はかろうじて一枚、東京ライブのチケットをゲットした。

 
ネットではやはり、チケット争奪戦で負けた方々がうようよいて
チケットを探してさまよう人が多かった。
本当は5公演行きたかったが、1公演でも行けたのは恵まれていた。

 
スピッツライブの次の日とその次の日は仕事で
しかも次の日とその次の日は他のアーティストのライビュ上映日で
しかもスピッツライブ会場が我が家から遠く
私は泣く泣く
アンコール前に会場を飛び出した。

帰宅は24時くらいだった。

 
次の日、アンコールに演奏した曲が私の大好きな曲だったとネタバレで知り
私はひたすらに嘆いたが
社会人だから仕方ない。
更に、別のアーティストも好きなのだから
こればかりは仕方ない。

 
私には希望があった。

 
ツアーは2019~2020年であり、2020年は地元や地元から近い場所でライブを予定していたし
東京ライブの時点で、まだ2020年地元チケットは販売していなかった。

地元ライブで、今度はアンコールまで聴く!

そう決めていたからこそ
東京ライブは途中で退場できたとも言える。

 
 
東京ライブ翌週は横浜アリーナのライブで
友達は参戦した。

チケットに外れた私は家族と神奈川旅行にたまたま行っていて
旅行は楽しいけれど
ライブ会場近くにいるのにライブに行けないもどかしさを
洋服にぶつけた。

私はそのツアーのライブTシャツで神奈川観光していたのだ。
ライブに行けなくても、心はスピッツと共にあった。

 
 
2020年を迎えた際
私はひたすらに4月と6月が楽しみだった。

スピッツのチケットは当然外れたが
私は4、6月の地元ライブチケットを、何が何でもゲットするつもりだった。

 
2019年と2020年でツアーグッズは変わると発表されていたし
仮に地元ライブチケットがとれなくても
物販だけは行こうと決めていた。

 
そして…

私とスピッツ友達は2019年末に決めたのだ。
2020年4月1日に、スピッツファンクラブに入ろう、と。

 
12月のライブに参戦した時
私と友達はスピッツ愛を爆発させた。
美しい照明やステージ装置、マサムネさんの歌声、スピッツのみんなの仲良しさ、ライブのクオリティの高さに
私達は別会場で、それぞれ愛が溢れた。

 
私も友達も
スピッツファン歴は15年以上だし
スピッツコーデをして、スピッツオンリーカラオケを何回もしたりと

「なんでこれだけ好きで、まだファンクラブ入ってないの?」

と、周りから首をかしげられたし
自分達でさえ、思った。

 
 
2020年4月1日にファンクラブに入るのは、二人で決めたわけではなく
たまたま二人とも、同じ考えだっただけだ。

【年度が変わる日に、スピッツと共に新しく歩みたい。】

私と友達は、気が合ったのだ。

 
 
2020年1月まで、私達はスピッツとの未来を思い浮かべて、キラキラしていた。
スピッツ友達とは、ライブ日程がいつもズレて参戦していたが
今年こそは休みを合わせて4、6月にライブに行こうと
約束していたのだ。

何が何でも、ペアチケットをとろう、と。

 
 
 
そんな中、2月頃から、コロナウィルス感染拡大がニュースになった。
正確には1月にはもうニュースになっていたが
あくまで武漢の問題として捉えたり
日本や世界に大きな脅威をもたらすとは
まだ考えられてはいなかった。

 
 
私は諸事情により、2020年3月いっぱいで急遽仕事を辞めることになった。

 
12年関わった職場だ。
私は骨を埋める気だった職場だ。

 
喪失感は凄まじく、私は有給休暇消化中、スピッツばかり聴いていた。
スピッツ以外は積極的に聴けなかった。
スピッツを聴いて、泣いて、聴いて、泣いて
そんな中希望は、4月の地元ライブだった。

だが、コロナウィルス感染拡大で、ライブは中止が濃厚だった。

 
「公式から発表あるまでは、私は絶対諦めない!」

と、私は何度も言い
地元ライブに支障が出ないように、転職活動をしていた。
地元ライブ日以降に転職したかったのだ。

 
前職ならば有給で4、6月はライブ参戦できたが
もう6月に参戦できる希望は薄かった。

 
 
次々に、大手アーティストがライブ中止を発表する中
スピッツはギリギリまで粘った。

「もう大丈夫だから…分かってるから………今は仕方ないよ。スピッツを誰も責めない。中止発表しても、ファンは離れないから。大丈夫だから。」 

私はそんな気持ちで
公式からの発表をひたすらに待った。
スピッツは何度も協議を重ねたのだろう。

 
やがて、【ツアー延期】が発表された。
具体的な延期日と共に、発表された。

地元ライブは4月から11月に変更になった。

  
 
 
私は吹っ切れたように、「さて、転職活動頑張ろう。」と呟いた。

 
2020年4月。
本来ならば仕事を続けつつ、地元ライブに参戦する予定だったが
私は無職になり、地元ライブは延期が確定した。

 
色々あっても決意は変わらず
むしろ色々あったからこそ、勇気をもらうかのごとく
私は2020年4月1日、ついにスピッツファンクラブ(ベルゲン)に入会をした。

 
無職になった初日、私はスピッツファンクラブの会員となった。
それは私にとって誇り高い日だった。

 
  
 
 
コロナウィルス感染拡大は止まらず
やがてスピッツのライブは更に延期が発表された。

周りのアーティストは【ツアー中止】【ライブ中止】が当たり前で
延期日にライブ開催が難しい場合
やむなく、【中止】を決断した。

 
今は仕方ないと思う。

 
 
だが、スピッツは決して諦めなかった。
あくまで延期の姿勢を崩さなかった。
公式から延期の発表があるたびに、私は泣いた。

スピッツらしいな、と思った。

 
 
だが、私はメンバーが心配だった。

リーダーの田村さんはライブができないことが相当辛そうだった。
なんせ30年以上スピッツをやってきたし、スピッツはライブ数が多いバンドなのだ。

 
そしてマサムネさんは、スピッツが忘れられていないかを何度も口にしていた。

 
忘れてないよ。
スピッツを毎日聴いてるよ。
スピッツライブ開催を待っているよ。

と、日常生活やネットで口にしても
メンバーには届かない。

 
もどかしかった。
私がスピッツにできることはなんだろう。

 
 
 
11月。
ツアー延期は変わらないが、一夜限りで特別な東京ライブをやることが発表された。

 
私は3月以降、東京は行っていない。
いや、正確には他県に行っていない。

 
いつもなら、チケット抽選に命をかけるが
今回は応募さえ叶わず
後日配信するというお知らせを希望にし
配信を待つしかなかった。

 
ライブに行けないのは、普段なら非常に辛いが
リーダーやマサムネさんがそれ以上に心配だった。
壊れそうで心配だった。

メンバーの為にも、早くライブを開催してほしかった。

 
連日のニュースは暗く、悲しく
ライブ開催ができるのかが危うかった。
私はひたすらに祈った。
無事開催を祈った。

ツアー再延期の今、このライブまで潰れたら、メンバーがもたないよ…
神様、お願い。
スピッツにライブをやらせてください。

 
11月26日、一夜限りのライブ「猫ちぐらの夕べ」は無事開催され、成功をおさめた。
12月21日、マサムネさんの53歳の誕生日に
記念すべき、配信ライブが開催された。

そして、私は泣いた。

 
 
 
今年一年を振り返り
また今までの人生を振り返ると

様々な別れや悲しみや寂しさや悔しさや苦しみがあり
そのたびに私はスピッツの音楽に救われてきた。

 
私にとってスピッツは唯一無二の親友のような存在だったけど
ここまでくると、もはやスピッツは家族のような存在にさえ思える。

スピッツがない人生は考えられない。
私の人生にはスピッツが絶対に必要なんだ。

 
「猫ちぐらの夕べ」でスピッツメンバーは
「コロナに負けるな!」とかそんなことは言わなかった。

「今日を迎えられて嬉しい。」と笑い
「ここにいる人、一人一人がいないとライブは成り立たない。一人でも欠けたら、こんな素晴らしい世界には繋がらない。」といった内容を口にし
私はひたすらに涙が止まらない。

 
 
マサムネさんの口癖だった。

「一人でも欠けたら、今は成り立たない。」
「今日もありがとう。」

その言葉はライブに参戦した人に向けたステージ上の言葉だけど
ライブに参戦していなくても
ライブが終わった後でもなお
私の心に響いている。

 
 
弱くて、ちっぽけで、上手く生きられない私を

「それでもいいよ。生きていてくれてありがとう。」

スピッツはいつもそうやって肯定してくれる。

 
 
スピッツ、ありがとう。
私はスピッツが大好きです。

今はまだ会えないけど
MIKKEツアーでの再会を、私はずっと待っています。

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