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第16回「信玄を怒らせるな」4月30日

武田四郎勝頼が登場しました!

眞栄田郷敦さんの勝頼はカッコイイですね。
私は高校生の頃に新田次郎先生の『武田勝頼』(講談社文庫)を読んで以来、勝頼が大好きな武将でしたので、今回の眞栄田郷敦さんは、まさにイメージ通りでした。
かつて、武田信玄には義信という嫡男(長男)がいました。歴代の武田氏において初めて足利将軍家や清和源氏の通字である「義」の偏諱を受けた正室の子です。
甲相駿三国同盟の契りに、今川氏真の妹がこの義信に嫁していました。戦国大名家の婚姻といえば、政略と人質が絡むものでしたが、義信は妻をとても大事にして、武田家内において親今川家の立場を貫き通しました。
これが駿河攻略に傾きはじめていた父信玄との衝突を誘発することになりました。信玄自身が実の父の信虎を追放して家督を奪った男でした。息子の中に己と同じ血を感じたのかもしれません。親子の関係は日を追う毎に悪化していきました。
永禄七年(1564)七月、義信は傅役の飯富虎昌、側近の長坂源五郎、曽根周防守らとともに信玄暗殺を密謀します。しかし、これは発覚してしまい、義信は甲州東光寺に幽閉され、虎昌以下首謀者は処刑、八十騎の義信の家臣団も国外追放となりました。
義信は愛する妻である氏真の妹とは否応もなく離縁させられてしまいました。
その後、およそ三年の幽閉の後、永禄十年(1567)十月に、ついに義信は切腹させられ、それから一月も経たずに、信玄は四男の勝頼の嫁に織田信長の養女を迎えています。
正室の子だった義信に対して、勝頼は妾腹でしたが、信玄はその母の諏訪姫を側室ながら寵愛していたようです。
信玄の駿河侵攻(今川氏真攻め)が永禄11年(1568年)12月なので、このとき勝頼はに23歳(満22歳)で元服済みですから、諏訪姓ながら事実上の嫡男の扱いを受けていたかもしれません。むろん、家臣にはそれを認めぬ者も少なくなかったはずですが。
『どうする家康』では元亀3年(1572年)10月の信玄の遠江侵攻にあわせて勝頼が登場しています。信玄が自身の体調変化に気づいて上洛を決断している描き方をしていますので、当然ながら家督を勝頼に継がせることも決めていたはずです(実際の家督継承は信玄の死後)。
戦国随一の強さを誇る武田軍団を継承する嫡男ですから、勝頼が勇猛果敢な武将として描かれているのも、私としては大いに納得がいくものです。
今川氏真に続いて武田勝頼も、ぜひ愚将の汚名を挽回するように活躍させてほしいものです。

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