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第1回「どうする桶狭間」1月8日

家康の髪型は?

第1回の放送をご覧になった方たちの中で、「信長や家康は月代(さかやき)を剃っていないのはおかしい」という投稿が目に付きます。
昭和の頃からドラマで定着したイメージというものがあるので、これは当然といえば当然の反応だと思っています。
実際はどうだったのか?
実はよくわかっていないのです。
月代を剃るのは、戦時に兜を被った際に頭が蒸れるのを抑えるために始まった風習で、鎌倉時代にはすでにあったようです。
これが戦国時代になると戦つづきの日々となり、日常的に月代を剃るようになりました。
では、ドラマ第1回放送の桶狭間の戦(永禄3年/1560年)の頃はどうだったのでしょうか。
信長や家康の肖像画が残っているのは、戦国乱世の末期で彼らが晩年のものばかりです。つまりは髪が薄くなった中高年時代です。さらには実は死後に想像で書かれたものも多いです。正しい肖像画かどうかは、疑わしいものがたくさんあります。写真なんてない時代ですから、これは仕方がないですね。
桶狭間の頃は信長は数え27歳(満26歳)で、家康など数え18歳(満17歳)の若者で、しかも戦国時代といってもまだまだ乱世とは言えない頃なので、時代考証としては月代を剃っていないという選択が正しいと思います。
とくに信長は、若いときは月代を剃っていなかったことは、一次資料である『信長公記』(太田牛一)にも記録として残っています。
十八歳まで、信長の身なりは、湯帷子を袖脱ぎにして、半袴を着て、火打ち袋やらをたくさん身につけ、髪は茶筅髷。と書かれています。
茶筅髷とは、総髪の髪を一つに束ねた当時のチャラい若者に流行のヘアスタイルで、この信長の様子は現代でいえば、金髪ロン毛でチェーンとかジャラジャラつけた不良っていうところでしょうか。これで熱田の町(たぶん六本木みたいな感じ)をブイブイ言わせていたようです。
ドラマの中で、家康が「あれはケダモノじゃ。飢えた狼じゃ」って怖がっていましたが、幼少の頃に熱田で人質になっていた家康からすれば、本当に言ってそうなセリフだったと思います。
一方の家康のほうは、駿河の今川士官学校(太原雪斎校長)の優等生(おぼっちゃま)ですから、こちらも戦時体制の髪型である月代は剃っていなかった可能性は大きいです。
ということで、第1回放送は、二人とも月代ではなく総髪というのが、時代考証的にももっとも正解に近い選択だったと思います。
あとはまあ、ドラマなので😁 岡田准一さんや松潤といったイケメンに月代が似合うかどうかも、演出上は重要な議論だったと思います。
私個人の意見としては、案外と似合うような気がしてますけど😁 
さて、加齢とともに二人のファッションやヘアスタイルがどう変化していくか、物語とともに楽しんで注目していきましょう😄

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