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ご年

今年の初めに五年日記を買った。去年も数回買おうか迷った時期はあったが重い腰が上がらず断念。本屋に併設されてた文房具屋に行った時良い具合の分厚い日記があったので、そのタイミングで買った。どうやら僕は分厚いものに弱いみたいだ。

日記は案外続いている。数日酔っ払っていたせいで忘れたけど、その次の昼に「忘れた」と書き空白だけは埋めている。日記を書く前は、別に書くほどのことは毎日起きないだろうなんて思っていたが、書き始めて、やっぱり何も起きていない。振り返る価値があるのかとすら思うが、こうして何もないことを書き留めることで、少しは過去に価値が生まれるのかななんて思ったり。

仕事のことを書くとなんだか固くなってしまうから、できるだけ夜に起こったことを書いている。というか自然にそういう流れになっている。多分日中起きたことを書き始めると枠に収まらないからだ。見たもの、読んだもの、聞いたもの、直近一二年は消費したものに対しての反応が薄く、それだとあまりに失礼だし、記憶にも残らないという反省も込めて。

蕎麦ときしめんを読んだ日には、作品に便乗してこれ見よがしに名古屋人をdisり、動物農場を読んだ日には「俺は1984を読んだ時からわかってた。こいつはビッグだ」とオーウェルを褒め、ビート世代の特集を読んだ時には「ただのゲイの集まり」と揶揄したり、日記なのをいいことにデタラメを書き連ねる。5年後同じ日付に当たった時はさぞ楽しいだろう。

そういえば日記を書く理由の一つに万年筆がある。父親からもらった重いやつと、友人に誕生日でもらったLAMYの可愛いやつ、LAMYの方が細くて書きやすい、でも父親のやつもちょっと滲んで味がある。万年筆(新しいやつ、長い間使われてなかったやつとかも)は初めゴロゴロしてて書きづらいから、たくさん書いて馴染ませる必要がある。エイジング的な感じかな。それを知って、何かしら書かなきゃ!となり日記を買ったとも言える。にしても自分は漢字を書く能力が著しく低くて、この前は「終わり」の送り仮名が「わり」なのか「り」なのかがわからず悶えるほどだった。手書き文化なんて糞食らえと言いたいところだけど、そしたら万年筆がかわいそう。わからない漢字があった時は、雰囲気で読まずに調べましょう。

今日もさっき書いたけど、とりとめない雑な内容だった。
そんなんでいいのかな。文字を適当に投げつけるくらいが日記に丁度良いのかもね。


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