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[妄想]脳内副音声の存在

サッカーワールドカップがテレビ放送されていた昨年末のこと。

ふだんはなかなか気にすることのないテレビの機能が注目された。

副音声だ。

メインの解説とはちがった方向性での解説が、色々なところで注目と人気を集めた。

主音声がストレートなサッカーの情報を伝えるのに比べて、
副音声はサッカー真正面の情報だけではなく、別角度からの視点を与えてくれる。

それまでサッカーには興味を持たなかった人にも充分届くところまで接点の幅が拡がったのは、
間違いなく副音声のもたらした効果だといえよう。

あれから世の中も日常にもどり、また以前のように副音声が身を潜めるようになってからしばらく‥

われわれにサッカーのあたらしい見方を与えてくれたように、
ふだんの人生にも別視点を与えてくれるような副音声がどこからか流れてきたら、おもしろいのになと妄想が膨らむ。

たとえば、なにか落ち込むようなことがあったとき。
人は視野が狭くなってしまいがちだ。

でも大丈夫。
そんなときには「脳内副音声」の解説を聞いてみよう。

今の自分がどれだけすばらしいか、その絶妙な角度を見つけてわかりやすく解説してくれる。

または、ステレオタイプにハマりそうなとき。

思わぬ方向から切り口の場所を教えてくれるのも「脳内副音声」の特長のひとつだ。

そういえば、パッと見よくわからないと思われがちな抽象画などに、自分なりの解釈が生まれるときなどもじつは「脳内副音声」による翻訳がはたらいているのかもしれない。

「副」とは辞書によると、
主たるものに付き添うもの。添える。余計に付け加わる。などの意味があるらしい。

しかし、思うのだ。

ときには「副」が「主」だっていい!
2番手として後ろにつくのではなく、
堂々と横に並び立っていてもよいのだ。

「副音声」とか「サブカルチャー」とか、
彼らはネーミングという十字架をなぜか背負わされているが、
本質的な価値は「主音声」や「メインカルチャー」と同等だ。

というよりも、光と影のように互いが有ることによって引き立てあう共存関係とみるのがよろしいのか。

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