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大学1〜2年の頃の自分が不潔だった話

◯はじめに

 今回は自分が大学1〜2年の頃のお話をする。何度もこのブログで書き綴っているが、私は作新学院高等学校で硬式野球をやっていた元球児である。美術を学びながら硬式野球に取り組んでいた私にも、部活動を引退した後は進路を決めるという時期があった。第95回全国高等学校野球選手権に出場を果たすことができたものの、最後の夏は下級生に背番号を取られ、ベンチ入りができず、自分には野球をこの先も生活の糧として生きるだけの才能が無いと感じ、美術の道を選択した。

 大学は東京造形大学と東京工芸大学を受験したが、浪人は両親が許さなかった上に、東京造形大学はその年は合格発表が東京5美大で最も遅く(当時は3月20日が合格発表なので、地方から転居する学生はハードスケジュールを強いられていた)、両親が入学費を東京工芸大学に払っていたため、東京造形大学には合格していたことは後から知ることができたが、上記の理由により進学が叶わなかった。

◯自業自得が生み出す地獄

 大学からは神奈川県厚木市で1人暮らしである。大学入学後は、ワンルームの小さなアパートで生活しなければならない。親元を離れる寂しい気持ちもあったが、1人暮らしに対する憧れもあったので、高揚感もあった。しかし、この後私は地獄を見ることになる。

 今まで遊ぶ時間があまりなかった反動から、アルバイトをするのを面倒くさがってしまった。一応家賃や電気代、ガス代、水道代、食費である3万円などは両親が出してくれていたのだが、3万円は自由に使えることに甘えてしまい、アルバイトをするのを面倒くさがってしまった。逆に言えば、3万円しか自由に使えないので、散髪や日用品の補充等でお金を使えば、その分食費に当てられるお金が少なくなる。

 このような生活のまま入学式を迎え、そのまま2ヶ月程が経った。私に中々友達ができなかったのだ。それもそのはず。見た目が終わっていたからである高校球児の頃の坊主頭は髪が伸びきりキノコのような頭になっていた。服も自分で買ったことがなかった上に金が無いので買えなかったし、着こなしがおかしかったので周りからの視線が冷たかった。風呂には入っていたが、日用品の補充もサボリがちだった為、石鹸でしか頭を洗っていなかった。漂白剤をあまり買わないため、洗濯した筈の衣服に生乾き特有の変なニオイが染み付いていた。このせいでちゃんとした友達は少なく、変な友達も結構いた。

 食事も殆どしなくなった。これ以上食費にお金を使えないと思ったときは水と歯磨き粉だけで過ごした日もあった。今でもハッキリと覚えている。3週間で使った食費は僅か1400円。昼食でコーンポタージュのスナックだけで済ませてしまい、友達に心配されたこともある。

 完全に出遅れた。いや、大学デビューには失敗したと言っても過言ではなかった。アルバイトをしてなかったので自業自得である。金が無い、社会性もない。野球を取ったらここまで落ちぶれることができる。そういう人間がこの私だった。

 そして、こういう貧乏を極めたような生活をしていたので、体重が5キロ減った。高校時代ですら体重が58キロしかなく細身だったので、ここから5キロも減った事実を突きつけられていよいよマズいことになったと自覚した(高校時代に野球部の練習で筋肉はしっかりついていたので、体重が落ちても変に筋肉だけが残った)。しかも、散髪代も出し渋るようになり、髪も自分で切っていたので、周囲から見たら不自然な髪型になっていた。食事もしなかったせいで栄養失調を起こし、週1で持病である偏頭痛に襲われていた。大学2年生になってからは偏頭痛に襲われた回数をカウントしており、その回数は50回。週1の頻度で偏頭痛に襲われていたと思うと恐ろしく、自分の死すらもうっすらと見えてくる。

◯インフルエンザ

 こんな生活を続けていれば身体はもたない。弱った私に病魔が襲いかかった。レポートを提出する前々日の土曜日、頭が重かった。いつもの偏頭痛だろうとまた一眠りしたが、一向に頭痛は収まらない。寧ろ更に頭が重くなっており、身体を起き上がらせることさえ難しくなっていた。

「まさか、死ぬのか…?」

 明らかに身体が異常を来しているので、熱を測ったら39度という数字が出た。両親に電話で熱が出たことを報告した。土曜日の内に報告したので、治療費を出してくれた(日曜日はゆうちょ銀行が使えない)。下の階にあるゆうちょ銀行からお金を卸し、その日の内に熱い頭を重すぎる身体を、自力で病院まで運んだ。診察の結果はインフルエンザ。土日は薬を飲んで養生した。翌週の月曜日、インフルエンザになってしまい、1週間は大学には行けないことを友達に報告した。友達が通学ついでに私の部屋にお見舞いで寄ってくれた 。そして、偏頭痛に襲われながら無理矢理仕上げたレポートを、友達が私の代わりに提出してくれた。不潔な自分のことも一切悪く言わなかった友達のことは、今でも感謝している

◯ささやかな趣味

 こんな世紀末のような1人暮らしをしていた自分にもささやかな趣味があった。サイクリングだ。大学には自転車で通学していたので、折角自転車を持っているのだから乗り回さないと勿体ない気持ちがあった。金もかからないし土地勘が鍛えられるのでコストパフォーマンスが良い。2年間しか厚木にはいないのだから、この期間内に厚木市に隣接する市町村全てを回るという目標を立てていた。結局、この目標は僅か2ヶ月で達成されてしまうのだが、同じ神奈川県内でも全く違う空気を知ることができて楽しかった。目標を達成しても、自転車であちこちを回るのはやめなかった。「またここに行きたい」と思える場所が、厚木周辺には多いからだ。

 ただ、髪型がキノコで着こなしがおかしい中学生のような異常者大学生が自転車であちこちを走り回るというのはいささかシュールではある。

◯終わりに

 大学3年生からはキャンパスが東京都中野区に移り、ちゃんとアルバイトもするようになり、それなりに健康な生活が送れるようになった。

 今では大学を卒業し、私は1人の社会人として生きている。髪型も高校時代のような坊主とまではいかないが短髪であり、2週間に1度散髪するルーティーンも持つようになった。このような人間にも高校時代の野球部の練習とはまた違った自業自得とはいえ地獄のような日々を送っていたことがあるのだ。

 大学1〜2年生の頃の地獄のような生活はもうしたくないが、厚木にはこんな不潔な自分のことを見捨てなかった友達がいたという素晴らしい思い出があるので、年に1回は厚木に自転車で向かいたいものである。厚木を走り回っていた5年前の楽しい気持ちはいつまでも忘れないでいたい。また時間があったら、不潔だった自分が厚木周辺を走り回った記事でも別途で投稿しようと思う。

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