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「故郷を離れた時、私は作曲するという希望を捨てました。故郷を失った私は自身も捨てたのです。」(ラフマニノフ)

「故郷を離れた時、私は作曲するという希望を捨てました。故郷を失った私は自身も捨てたのです」と語るラフマニノフは、四半世紀近い亡命生活の中で、6曲程の作曲しかしていません。

こんにちは。音楽評論家の和田大貴です。ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」について、その背景や魅力を紹介します。この曲はラフマニノフが亡命後に作曲した数少ない作品のひとつですが、その背景にはどのような事情があったのでしょうか。

ラフマニノフは1917年にロシア革命が起こると、家族とともに故郷を離れました。その後、彼はアメリカやヨーロッパで演奏活動を続けましたが、作曲するという希望を捨てました。故郷を失った私は自身も捨てたのです」と彼は語っています。四半世紀近い亡命生活の中で、彼は6曲程の作曲しかしていません。

ラフマニノフの亡命生活には、様々な困難や苦悩がありました。彼はロシアから持ち出した財産を失ったり、アメリカでの演奏スケジュールに疲弊したり、第二次世界大戦の勃発でヨーロッパへの帰還を断念したりしました。彼はアメリカで成功したピアニストとして認められましたが、作曲家としての評価は低く、批評家からも冷淡な扱いを受けました。

彼は故郷への想いを断ち切ることができず、ロシア語やロシア文化に固執しました。彼は自分の居場所を見つけることができないまま、1943年にメラノーマで亡くなりました。

さらに、ラフマニノフは音楽的な挑戦にも直面しました。**彼はロシア時代に作曲した作品が西洋の聴衆や批評家に受け入れられるか不安でした。彼は自分の音楽が時代遅れだと感じており、ストラヴィンスキーやスクリャービンなどの近代的な作曲家と比較されることを嫌いました。

彼は新しい音楽を理解しようと努力しましたが、自分のスタイルを変えることはできませんでした。彼は自分の音楽が「ロシア的」だと認めており、「私はロシア人の作曲家です。私の生まれた国土が私の気質や見方に影響を与えています」と言っていました。

そうしたラフマニノフが1934年の夏に、7週間でこの曲を一気に書き上げたのは、おそらく、彼の脳裏に、突然、第18変奏の美しく甘美でノスタルジーに満ちた旋律が浮かんだからに違いないのです。

ラフマニノフの演奏は、この第18変奏を実に淡々と弾いているのですが、内声部が、次第に高まる潮のように、旋律の上に浮かび上がる時、胸を刺すようなそれでいて甘美な世界が開けます。

他の演奏ではセンチメンタルであったり美しかったりだけで何かが欠けています。

ラフマニノフだけが、この旋律を通して、過去の扉を開けることができる鍵を持っていたからでしょう。

この曲に新しい視点を導入するような天才ピアニストが現れないかぎり、こうした往年の名演奏を越えることは、なかなか難しいと思います。

そうした意味で、このラフマニノフの自作自演は、まさに歴史的遺産といえるでしょう。


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