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※こちらの文章には映画「ゴールデンカムイ」の内容に
 一部触れる可能性がございます。これからの鑑賞を
 予定され、既知である事を避けたい場合は、
 御覧いただくことをお控えください。
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約1週間前に鑑賞し「映画としてはあまり面白くなかった」という感想を抱いたものの、周囲の絶賛の猛風にさらされたり、知人の落胆を招いたりし、随分と自身の感受性の劣化を疑い、悩んだりした。

諸々の感想などを見ていく中で、1つだけはっきりした…というか「何で自分がそう思ってたか」がはっきりはしたので残しておきたい。

映画「ゴールデンカムイ」

冒頭で描かれている日露戦争のシーン。圧巻の迫力と規模。映画の導入として文句のないインパクトが描かれたものだったと思う。

そして「不死身の杉元」を決定的に印象付ける主役の登場、からの大立ち回り、これにより主人公の作品内での位置付けが明確に提示される。

あらためて思い返してみた。この時点でワタシはかなりワクワクしていた。いや、だいぶ「これは面白くなりそうだぞ」と、前のめりになりがちに気負って観ていたようにすら思う。

しかし何故、鑑賞後のワタシは「映画としてはあまり面白くなかった」なんて首をかしげていたのだろうか。

あの時点から先のワタシは、

「あぁ、山田杏奈さんのアシリパさんは、年齢感の難しさはあれど、それでも凛とした強さがよく再現されているなあ」とか「ヒグマもオオカミもCG感は少し残るけど、相当こだわって再現しているなあ」とか「人皮のエピソードも…北の台地の環境も…土方・鶴見・牛山・白石・各将兵も再…」

そうなのだ。あそこから先、ワタシはひたすら再現度の高さに感心し、その出来上がりの良さには感心しているが、新しい何かの感動で、心が動く喜びを得る事が少なかったのかもしれない。

冒頭の日露戦争のシーン、確か原作では数ページの「…というエピソード」的な軽い扱いだったような気がする。それが映画版では「冒頭のインパクト」と「主人公の印象付け」のために、明確な目的でそれは描かれ、映像が立ち上げられ、こちらに強く投げ掛けられていた(ように思う)。

だからこそ、そこには鮮烈さと魅力が濃く詰まり、瞬間的に映画へワタシは引き付けられていったのだと思う。

これには、答えはない…というか、出しようがないとは思うだが、個人的な考えとして「実写化の精度」が高くなればなるほど「原作(と原作支持者)との摩擦は減るが、新たな創作物としての魅力はどこか薄まる(のではないだろうか)」

逆に「実写化の精度は最低限果し、制作者の(たとえ多少のエゴでも)意図と想いを通過させ(もちろん原作者の意図は無視されてはならないが)創作されたものは、鑑賞者の心を強く揺さぶる可能性が生まれる…」のではないか…と。

そんな簡単なくくりで片付くものではないとわかってはいるし、言うほど簡単な工程だとも思っていないし、明確な回答を自身で練り上げられていないが、再現度(実写度)の高さは価値なのだろうか?

もう一歩踏み込んで言えば【そこまで絶対的な価値】なのだろうか。

似ている(もしくは二次元と三次元の親和性が高い)事ばかりに、我々受け手側の判断基準が、フォーカスし過ぎてきてはいないだろうか。「面白い」と同義に、それを絞り込み過ぎではないだろうか。

もちろん、原作ありきで考えられるべきだし、改変や異なる解釈が、ファンに受け入れられない(られづらい)事はわかるし、原作が存在する前提を崩すほどに、二次創作側に、自由が許されるべきではない。それはわかっているし、当然だと思う。だがそれにより「映画制作」で考えた場合に、その魅力の面で、その度合いはプラスであるのか、足枷であるのかがわからなくなってきた。

「映画化」に許される道は、微動だにしない寸分違わぬ「実写化」のみなのだろうか。そこに残るのは、二次元から三次元への変換作業だけなのだろうか。

自分でもわかってて書いている部分は多分にある。
「そうではない」し「そういう問題ではない」のだ。

これは創作と二次創作の矛盾と、変換と転換の課題なのかもしれない。答え、というか、正解が出せないことだと承知して書き続けるが、

今の時代、それに限るものではないかもしれないが、文章にしろ漫画にしろ映像化前提では、創作されてはいない(はずだ)とは思う(先々の成功想定地点としてのビジョンとしては、一部あるのかもしれないが)

だが時代が、環境がそれを許さない、というか商業的な事情で、その呪縛からは逃れられないのだろう。売れる価値が付随した作品からは「二次(三次)展開」が、その大半は切り離せないのだ。

「規模が拡大する」という観点からは喜ばしい…のかもしれないが、それを≪純粋に拡大した≫と取るか≪余計なしがらみが延長した≫と取るのかは、走り始めの時点では、判断が難しい、いや不可能なのかもしれない。

単純にどこかのフィールドのみで存在していた作品が、いざ二次・三次展開の海へと出航してしまえば、もうそこの先に辿り着くのは「商業主義という名の台地」なのだと思う。その国では、作者の信念や、作品の理念よりも「商業主義」が優先されるのだ。

この≪商業判断が優先される≫事が土台土壌・背景・根底にある限り、その呪縛に絡められた作品には【かけた費用を回収する宿命】が課せられる。

結果「前提や風評で『原作潰し』の烙印を捺される訳にはいかない」ことにつながり、極度の「再現度重視の病い」がまん延する世界に繋がるのではないだろうか。

だいぶ重症かもしれない。「実写再現度の高い作品」を観たら、素直に喜べず、素直に楽しめず「なんでこんなワタシはこんな感想なんだろうか」と日に1~2時間悩み続けているわけだ。

でも。多くの人が「再現度」「再現度」と繰り返し、どこか中身に触れてくれない。そんな空気に触れて、やや辟易したのは正直なところだったりする。世界が狭まる苦しさがのしかかる。

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