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村上龍『空港にて』評

 村上龍の『空港にて』が殊に優れた短編小説であることは、皆様すでにご承知のことと思います。ここに明かされるのはその傑作たる所以なのですが、よしんばそれが明かされたとしても、それをもとに上質な短編を狙って書こうというのは、どだい無理な話でしょう。もちろん技法も大切ですが、着想は決まって幸運がもたらすもので、狙って作れるものではないのです。しかしこんなことはわざわざ言うまでもなく、『空港にて』が、それがとても短い作品であるにも関わらず、いかに複雑な象徴関係によって成立しているかを見ていけば、おのずと諒解されるはずです。

 その幸運を掴めるか否かは観察の技量にかかっています。本作が幸運の産物であるとは言え、具体的な作品として結実できたのは、村上が優れた観察眼の持主であるからに他なりません。洗練された諸作品は、事象そのものの描写に徹した、透き通った文体を特徴とし、その成立は明らかに洞察の鋭さに負うものです。語りたいことを語らないのにも関わらず、読み手は描写の暗示から、その語りたいことを強く感じ取ることができます。村上は、万の言葉よりも一の沈黙が、しばしばずっと多くのものを言うことを良く知っています。ジャンルとしてはいわゆるハードボイルドものですが、村上のそれは無感情を意味しません。たしかに一見、冷たい輝きを放ってはいますが、それは結末に立つ仄かな熱を際立たせるための、計算された零度なのです。熱そのものを上げれば感動も大きくなると考える単純な作り手たちは、設定をやたらと過激にすることで目標を達成しようとしますが、そういうのは下品で文学ではありません。

 空港は、はじまりの象徴でありつつ、ある程度の到達点でもあります。飛行機は上級な移動手段ですから、そこに集うのはビジネスマンや老夫婦など、ある程度の所得を確保した人たちです。物語で描かれる現在と結末が匂わせる未来を考えれば、これ以上に相応しい舞台はありません。筋としては、待ち合わせ場所に「サイトウ」が来るか来ないか、それだけの話です。物語は、語り手である「私」の、視界の描写と回想を交互に移ろい進みます。視界に映るものとは言え、空港における全ての存在が描写される訳ではありません。その陰には必ず切り捨てられたものがあります。その意味で描写されたものは単なる事実ではなく選ばれた事実であり、それは鏡のように観察者の関心を現します。描写の散文的なとりとめのなさは、サイトウを待つ私の心もとなさをはっきりと表しています。ここで巧いのは、不安を主人公に言わせず暗示で表現するという方法を採ることで、それが無自覚であることを示し一層強いリアリティを獲得していることです。間抜けな三流作家なら「私は不安だ」などと書いたでしょうが、本当に不安にとらわれている人は「不安だ」とは思いません。過去形にすれば、「私は不安だった」と言えますが、臨場感が死にます。村上は安直を退け現在形で書くことでスリルを醸すことに成功しています。

 明らかに私の懸念は、サイトウが来ない場合に到来するであろう、関係の温もりの致命的な喪失、期待して損した滑稽な自分、という二重の意味での「寒さ」ですが、サイトウを待つ私が表面上心配するのは行き先である熊本の寒さに私の装いが耐えられるかです。意識の対象を唯物的に限定することで、語りの安定が保たれています。待人を求めさまよう私の視線は、サイトウと同年代のビジネスマンに止まります。トレンチコートと灰色のスーツのビジネスマンがこちらに向けるまなざしが、見る側の私が、見られる側でもあることを思い出させ、私は世界のなかに、一存在として取り込まれます。これにより不必要に達観、超越した雰囲気を帯びてしまいがちな語り手を、地に足が着いたバランス感覚のある大人として落ち着かせることができます。ビジネスマンと目が合うことによってもたらされる、ベージュのコート、黒のワンピースにスカーフという私の装いの描写によって、読者は私の性別が女であることを知ります。主人公である私に関する情報は限定されています。美男美女を描くコツは、なるべく多くを読者の想像に委ねることです。書き手の思う美形は読み手にとっての美形とイコールではありませんから、ことの首尾を左右するのは、いかに描くかではなく、いかに描かないかであり、書き手は想像が物語上の設定から外れないような必要最低限の特徴だけを示せばよいのです。村上が提示する手がかりは、コート、ワンピース、スカーフ、三十二歳、風俗の職歴、これくらいのものです。直接的な身体描写は皆無であるのにも関わらず、読者は確固たるイメージを得ることができます。物語はビジネスマンの形相によってサイトウにまつわる回想へスムーズに移行します。

 私の名は最後まで明かされませんが、これは恋人であるサイトウに対しても同様で、提示されるのはユイという源氏名のみです。名前にまつわるエピソードとして、ユイから「でも私の本当の名前知らないでしょ」と言われたサイトウが悲しそうな顔をしたという回想が挿入されます。名にまつわるエピソードにより、風俗の客だった「サイトウ」が片仮名表記であることに注意が差し向けられます。それが関係の距離感を表象していることは言うまでもなく、サイトウの表情に心を痛めたユイは意地の悪いことはもう言うまいと反省するものの、やはり本名は明かさないままです。ここにはユイのサイトウに対する不信感を見て取れますが、それはサイトウの問題というよりか、ユイの傷ついた人間観の問題です。彼女はこれまで味あわされた数々の幻滅から、素直な期待を抱くことができません。ことさらに希望を口にすることを慎むユイの様子からは、どんな残酷もありうるという静かな諦念が伺えます。むろんこれはサイトウが来ない可能性も暗示しています。

 ユイが冷めた人生観を持つに至った背景は、彼女が風俗店で働くことになった経緯として回想の形で提示されます。自らの人生を物語化するチャンスを人はそう簡単に見過ごさないもので、風俗店で働く話というのは必ず理由とセットになっています。ユイの場合は、元夫が営む工場の閉鎖とそれに伴う家族の破綻です。夫は私に優しかったが、母にはもっと優しかった、淡々とした語り口に、当時は熱を持っていたはずの石化した悲しみを見て取れます。かつての家族は、ユイにとってもはや過去のものになっています。そこに登場する元夫、元義母、子らが、名前で呼ばれていないことが暗示する意味が際立つのは、あらかじめ名にまつわるエピソードが挿されているからです。短編で肝要なのは情報を無駄なく自然に開示する順序と手際ですが、その点村上の仕事は巧みです。

 家庭の悲劇とリンクしてユイが目に留めるのは一組の老夫婦です。その老夫婦の片割れの老婆、元夫の母親、元夫との関係性としてのユイと、物語には三人の「妻」が登場します。このうちユイだけが妻の身分を保てませんでした。この身分としての関係性を再構築することがユイの希望になっています。その正念場とも言える待ち合わせ場所でユイが回想する元義母、目に留める老婆は、投影された将来の不安であり、それは単純に不安でありながら、サイトウが来なかった場合に、それはどうせたいしたものではなかったと慰める機能も持っています。自分の不安の直視を無意識に避けている自己防衛からはある種の痛ましさすら感じられ、ここでも間接的な描写が文学的に功を奏しています。

 老夫婦の夫は煙草を吸いに行ってしまい、その妻である老婆は菓子を食べながらそれを待ちます。菓子の包み紙は丁寧に折り畳まれ床に捨てられます。老婆は戻ってきた夫にも菓子をあげます。菓子を受け取った夫はそれを食い、包み紙だけを返し、老婆はそれを床に捨てます。これら、同情も非難もない冷徹な観察結果として提示される遣り取りには、プレゼントのポジティブな還流とネガティブな還流があります。菓子の消費と包み紙の処分、ここで割を食っているのは空港の床で、回想に話を転じれば、元義母のまき散らしたストレスは夫を経由してユイに流れていましたから、ユイはそこで空港の床と同じ立ち位置にありました。戻ってきた夫に老婆は菓子をあげますが、サイトウが無事やって来てくれたとき、自分にはなにができるのか、ユイは考えています。義足をパラシュートで届ける映画を観たユイは、義足を作る仕事に就くことを願うようになります。足は移動するための器官ですから、義足は失われた移動手段の具象です。それがパラシュートで降ってくることは、僥倖としてもたらされることの暗喩ですが、その意味でサイトウが、再出発を期すユイにもたらす170万の学資金は「パラシュートで降ってきた義足」であり、ユイが作りたいと願う義足はサイトウから授かった幸福をまだ見ぬ他者に還流しようと願う、プレゼントの菓子です。

 冷気と物に直接触れないための装身具である革手袋を身につけて、サイトウは現れます。登場の台詞は、「外は寒いよ」です。やはりここにも唯物的な限定がありますが、その限定は無感情によるものではなく、押し付けがましくない沁みる心遣いです。結末においてもユイは感傷に陥ることなく、意識の端には包み紙を折っている老婆があります。これによりハードボイルドな世界観と、ユイの幸福が義足という形で還流する予感、が矛盾なく成立し、物語は明るい印象のもとに幕を閉じます。様々な形で提示された問題は、最後の段落で一気に蹴りがつきますが、この仕上げの手際も抜け目がなく、短編の出来をもっとも左右する締め括りはシャープで鮮やかです。読者は上質な短編小説特有のカタルシスを存分に味わうことができます。

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