Yuta's Devotion

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主の家に住まう

 ここは個人的に大好きな箇所だ。 多くのクリスチャンは1節から4節が特にお気に入りだと言う方が多い。だが私は5〜6節が好きだ。  古代近東の文化では、食事の際に人に香油を注ぐことが慣習として存在した。もてなす主人は、どんな犠牲を払ってでもお客を守るべきだとされた。たとえ敵がお客を囲い込んだとしても、主人は全力で守るのだ。 神はこのような罪深い私たちを守り、食事を与え、さらにもてなしてくださる。そしてなにより、永遠に主の家に住まわせてもらえるという特権が与えられている。これは

    • スーパーマリオなキリスト者

        私はこのみことばほど安心させるものはないと思っている。神の選びと人間の責任という長年議論の対象となっている問題は脇に置いて、救われた人たちは一方的な神の恵みにより義とされている。さらに栄光を与えられたと書いている。 与えられる"だろう"ではなく、与えられ"た"のである。キリストが栄光の姿に変えられたように、キリストにつく私たちは、栄光の姿に変えられるのは未来だが、時間を超えたところにおられる神は私たちを見るときに、すでに栄光の姿に変えられたと断言する。 これほど私たちを安

      • 関係

        [ローマ人への手紙 8:14,15,16] 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会  神の子どもであるということは、 御霊の「いのち」を持つ者であると言える。 ヨハネの福音書 17:3

        • 犠牲の心

          [ローマ人への手紙 9:1,2,3,4] 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。 聖書 新改訳2017©2017新日

        主の家に住まう

          キリストにつく者

          [ローマ人への手紙 5:12,13,14,15,16,17,18,19,20,21]  こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に── 実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。 けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方の

          キリストにつく者

          益となる

          [ローマ人への手紙 8:28] 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会  「神を愛する人たち」というのは、神を信じ、神の命令に従順であろうとする人たちである。 それを28節では、「神のご計画にしたがって召された人たち」とイコール関係で結んでいる。 簡潔化すると、キリスト者とは神の何らかの目的に沿って、神に選ばれた人たちな

          友は選べ

          [箴言 13:20]  知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。  愚かな者の友となる者は害を受ける。 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会  会社に一人は厄介な上司人が居がちだと思う。 その上司一人の責任で、何人もの部下が辞めていくというケースは珍しくない。 これはまさに、「一個の腐ったりんごはりんご樽をダメにする」という古いことわざの通りである。私たちの周りにいる職場の知人や友人は、時に私たちに深く影響を与える。最も身近な友として誰を選ぶかが私たちの人生

          罪からの解放

          [ローマ人への手紙 6:7,8,9,10,11,12,13] 死んだ者は、罪から解放されているのです。 私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 同じよう

          罪からの解放

          口を見張れ

          [箴言 13:3]  自分の口を見張る者はたましいを守る。  唇を大きく開く者には滅びが来る。 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 語ることばをコントロールできなければ、自制とはいえない。言葉には二つの側面がある。ひとつは癒しや励まし。もう一つは中傷や破壊。 聖書にも同じく口から呪いと賛美が出てくるという記述がある。ヤコブはこの真理を認め、舌は火であり、不義の世界だとも言っている。 私はおしゃべりな方だ。 ついつい喋り過ぎてしまうのだ。 人の話を聞こうと

          行動だけでなく、心の動機も

          [民数記 22:1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,32,33,34,35] イスラエルの子らは旅を続け、ヨルダンのエリコの対岸にあるモアブの草原に宿営した。  ツィポルの子バラクは、イスラエルがアモリ人に行ったすべてのことを見た。 モアブは、イスラエルの民の数が多かったので非常におびえた。それでモアブはイスラエル人に恐怖を抱いた。 モアブはミ

          行動だけでなく、心の動機も

          癒しがたい存在

          [エレミヤ書 17:5,6,7,8,9,10]   主はこう言われる。   「人間に信頼する者はのろわれよ。   肉なる者を自分の腕とし、   心が主から離れている者は。   そのような者は荒れ地の灌木。   幸せが訪れても出会うことはなく、   焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。   主に信頼する者に祝福があるように。   その人は主を頼みとする。   その人は、水のほとりに植えられた木。   流れのほとりに根を伸ばし、   暑さが来ても暑さを知らず、   葉は茂

          癒しがたい存在

          ゆうた流福音伝道ブリッジ

          未信者に福音を伝えるとき、私たちは勇気と信仰を要する。 クリスチャンでも、なかなか福音を伝えようと思っても、いざ伝えるとなると、伝えられない人々が多い印象だ。 短くかつ適切に福音を伝えるために、私は自身で型を作ってみた。 それがゆうた流福音ブリッジである。 いつも私が福音を伝える時に言っていることだ。 もし、伝道時に何を言えばいいかわからない悩みを抱えている人がいるならば、参考になれば幸いだと思っている。 ----------------------------------

          ゆうた流福音伝道ブリッジ

          献身と従順へ

          [ローマ人への手紙 2:25,26,27,28,29] もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。 ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。 からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼

          献身と従順へ

          親の教えを首につける

          [箴言 6:20,21,22,23]  わが子よ、あなたの父の命令を守れ。  あなたの母の教えを捨ててはならない。  それをいつも心に結び、  首に結び付けよ。  あなたが歩くときには、それがあなたを導き、  寝ているときには、あなたを見守り、  目覚めるときには、あなたに話しかける。  命令はともしび、おしえは光、  訓戒のための叱責は、いのちの道であるから だ。 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 子どもが成人へと成長するにつれて、自立心が育ち両親から

          親の教えを首につける

          信仰によって生きる

          [ローマ人への手紙 1:17] 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会  使徒パウロが信仰ということばを使うときは、注意が必要だ。なぜなら、パウロの発する信仰とは救いと密接に関係しているからである。 救いを得たいがために信仰をしなければならないのではない。もし信仰が救いを得るための行為として認識しているのなら、信仰は単なる一つの行動にしか過

          信仰によって生きる

          コラに「こらぁ!」と言いたい

          [民数記 16:1,2,3] レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」

          コラに「こらぁ!」と言いたい