限界を知る

[ルカの福音書 5:3,4,5,6]

イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。
話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

大学時代、私は英語弁論部に所属していた。
スピーチ競技をする中で、自分の限界というものを何度も思い知らされた。
スピーチ競技で争う大学は、東大、京大、早稲田、慶應義塾大学といった天才集団だった。
彼らのほとんどが海外留学経験者で、英語がペラペラであった。
一方、私は留学には行ったことはあったが、彼らほどの英語力は持ち合わせていなかった。
スピーチの内容や手振り身振りといったデリバリー面では大差はない。ただ圧倒的に英語力の差が大きかった。残り2年間で彼らよりも英語力を上げることができないのではないかと、ひとり絶望したのを覚えている。限界を感じたのだ。
自分の無力さを認めて、英語力では勝とうとするのでなく、スピーチの表現力に磨きをかけることに重きを置こうと決意した。
人は自分の限界を知るときにはじめて、
誰かに頼ったり、あるいは
新しい行動にうつしたりと、試みるものだ。
ペテロは昨夜、漁をしたけれど、何一つとれないことを認めた。自分の得意とするところで、何もできなかったということを正直に認めたのだ。
これが自分の限界を知るということだ。
けれども、この「でも」という接続詞がとても大切だと思う。限界を認めながらも、みことばに従ったペテロ。神は、新しいことを行われるときは、いつもこのようにされる。まず私たちに、自分たちの限界を悟らせ、自分の生き方に行き詰まるようにされる。自分でいろいろやってみて、何とかうまく行っているように見えるが、どんなことをやってもうまくはいかない。そんなとき、神は初めてことばを私たちに授けられる。
そして、私たちがみことばに従うように促される。
私たちはペテロのように、自分の限界を認め、
正直にイエスの言葉に従う者でありたい。

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