兄息子

[ルカの福音書 15:25,26,27,28,29,30,31,32]

 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

これは放蕩息子の話の一部分だ。
この話は放蕩息子と異常なまでの愛を持った父の二人だけの関係がよく強調される。
しかし、今回は後半部に登場する兄息子についていろいろ考えてみたい。
まず、兄息子と父親の関係について。
父親の兄に対する返答から、この父親は兄を愛している。ただ、兄息子は少し違った可能性もある。
「兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。」
ここで兄息子は父親の戒めを一点一画
守り通しましたとの主張をしている。
ここから読み取れるのは、
自分の行いを過信している。
兄息子は自分の正しさという義に閉じこもり、神でなく自分自身の考えこそ一番であると思っていたかもしれない。
つまり、神と兄息子の関係は家族関係というよりも主従関係に近いように思える。
イエスによる放蕩息子のたとえ話は、律法主義であるパリサイ人に向けて話された話であることからもそう言えると思う。
主従関係は行いの有無に重きが置かれがちだ。
「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。」
ここでのパリサイ人は、兄息子と同じように、
自分自身が正しい者であって、取税人や放蕩息子は自分たちと比べて正しくないと言っている。
このように私たちは、パリサイ人や兄息子のような態度を取るべきでない。自分自身の正しさに照らし合わせて、隣人を評価するのではなく、
神の基準に合わせて、隣人をあわれむ者でありたい。

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