恵みからの応答者ザアカイ

[ルカの福音書 19:2,3,4,5,6,7,8,9,10]

するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

ルカによる福音書は唯一時系列の書物
19:1の「それから」とは18章の後という事。
18:13でイエスがパリサイ人と収税人の祈りを比較する箇所がある。ザアカイの事を預言しているかのように描かれている。

その後に子どもがイエスに触ろうとすると弟子たちが叱ったり、
盲人に対しても人々はたしなめるシーンがある。
それは、イエスが間もなくエルサレムで、ローマ帝国を倒し、神の国を立ててくださるという期待でいっぱいになっており、イエスがこのような盲人や子どもに関わる暇などない、という思いがあったからもしれない。

でもイエスは、ローマ帝国を倒して実際に王国を建てる為に地上に現れたのではない。
罪人を招くために地上に現れた。
マルコ2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
周囲の期待はイエスに大きな期待を持っていたが、イエスは小さな事やモノに焦点を当てていることわかる。

3節「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」

 ザアカイは背が低く、しかもいちじくの木に登ったとある。何とも滑稽な光景だが、彼はイエスをぜひとも見たいという好奇心から、無邪気にも木に登った。イエスが、「神の国は、このような子どもたちのものです。」と教えられたことを思い出す。
でも、彼もまた、盲人と同じように、人々から見向きもされなかった人物。
なぜなら税を回収する時に多くお金を取って人の金をポケットマネーにしていたから。

弟子たちや他のパリサイ人は、こういった収税人のような罪人や病人といった社会的弱者に対して見向きもしない態度だったが、
イエスはむしろそういった人たちを気にかけられて愛と力を示された。
このザアカイの話は神の一方的な無条件の愛と神の力がよく現れている箇所だ。
ザアカイがイエスを見る前に、イエスがすでにザアカイの家に泊まることにしておられたところに神の力と愛を見ることができる。
ザアカイが自分から救われようとする決断よりも、イエスがザアカイを救おうとする決断のほうがはるかに大きいことを示す。
ここに愛がある。
放蕩息子の例え話もそうだ。
罪を犯した息子が悔い改めて父親の元に帰る熱量よりも、父親が息子を思う熱量の方がはるかに大きかったのと同じように。
イエスは、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがむずかしい。」と言われた。だから普通に考えて、金持ちのザアカイが救われることは低確率で、人間の力では無理なのだ。
でもザアカイは針の穴を通ってしまった。なぜなら、神にはできることだから。
また、初めて会うにも関わらずザアカイという名前を呼んだ所に神の力と愛が表れている。
彼はイエス様にザアカイと名前を呼ばれた時に直感でこの人は本当に神の子だと悟ったのだと思う。イエスが会ったはずも無い人(ザアカイ)の名前を知っていたからである。

このように神様の一方的な無条件の愛と神の力が現れている箇所が、このザアカイの話である。
神の愛と力を目の当たりにすると人は変えられ、その恵みに応答していくことを学んだ。

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