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紅色の薔薇


串田孫一『随想集 光と翳の領域』
(講談社文庫、昭和48年4月15日、カバー装画=串田孫一)

およそ三十年間にわたるエッセイのなかから著者が選んだアンソロジーです。《愛着の序列などというのは妙な言い方ではあるが、この四十八篇には変らない愛着があって、選択に迷わなかった》(「覚書」p308)とのこと。近所の古本屋さんで三冊二百円で買ったうちの一冊。

古本にまつわる「紅色の薔薇」はニヤリとさせる好短編。まず著者は本にいろいろなものを挿み込むクセがあると前置きをします。葉書、切符、二十銭紙幣、映画のチケットなどなど。[引用文中の一行アキは引用者によります]

この頃はあまり古本あさりもしなくなったが、つい最近、時間が半端になって、洋書が沢山ならんでいる古本屋へ入った。フランスの本の棚をぼんやり見ている時に、フランシス・ジャムの詩集『桜草の喪』を見つけた。私は二年ばかり前に、新しいのを取り寄せて持ってはいるけれど、妙なもので、自分がいつも関心を寄せている本をこんなところで見つけると、どうもそのまま素通りしてしまうことも出来ず、一応は棚から引ぱり出してぱらぱらとやってみたくなる。知らない人が、何かの一句に感動して、自分だけに分かるような印でもつけてあるかも知れないと思うと、ちょっと覗いてみたくなる。

 ところがどうしたことだろう、このジャムの詩集は私が確かに所有していた本であった。その時分、私は蠟石に、つりがねにんじんの花を一輪だけ彫って、むろん名前も頭文字なども入れずに、蔵書印代りに本の隅に捺していたが、それもちゃんと捺してあるし、見ればいろいろのことを想い出す自分の書き込みが見あたる。一体どうしてこんなことになったかを書かなければならない。大してこみ入った話ではない。》(p84)

じつは大学三年のときに同人雑誌の仲間にこの詩集を貸したそうです。その友人が兵隊にとられ、行軍しながら疲れて死んだということを家族から知らされました。そんなわけで詩集もそのままになってしまったとか。その家の人が本の整理をして売り払ったのではないかと著者は考えます。

そしてその本を躊躇なく買い、喫茶店に入ってあちらこちら開いていると、しおりがわりの薔薇の模様のある小さな布片が出てきました。そこから著者はそれと同じ模様の洋服を来ていた女性を想い出すのです・・・。

だいたい、こんな筋書きです。ところが、じつはこのエッセイはある婦人服地の宣伝雑誌から依頼されたもので《かなり創作をしている。フランシス・ジャムの詩集のことも、事実ではない。編集担当の青年から、その再会した詩集の写真を載せたいと言われて誤魔化すのに苦労した》(「覚書」p311)ということでした。たしかに出来すぎですね。

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