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紫式部日記の書物記事

『枕草子 紫式部日記』(日本古典文学大系19、岩波書店、昭和33年第1刷)が均一棚出ていました。前にも持っていたようにも思いましたが、処分したのは間違いないので、ふたたび入手。紫式部日記の書物に関するくだりを引用しておきたいと思ったからです。

まずは、当時の習いとして新生児に本を読み聞かせるという風がありました。一条天皇第二皇子敦成親王(後の一条天皇)が生まれ、その御湯殿の儀(皇子誕生に際して産湯を浴びさせる行事)のときのことです。

 文よむ博士[はかせ]、蔵人弁広業、勾欄[こうらん]のもとに立ちて、史記の一巻[くわん]を読む。弦打ち二十人、五位十人、六位十人、二なみに立ちわたれり。
 夜さりの御湯殿[おゆどの]とても、さまばかりしきりてまゐる。儀式おなじ。御ふみの博士ばかりやかはりけむ、伊勢の守致時[むねとき]の博士とか。例の孝経なるべし。また擧周[たかちか]は史記の文帝の巻をぞ読むなるべし。七日のほどかはるがはる。

P453

文よむ博士とは《読書博士。御湯殿の儀に紀伝明経の博士が漢籍のめでたい文章を選び読む。》です。《史記の一巻》とは本書の註によれば《御堂関白記には孝経とある。》、また佐山濟『原文・頭註・評釈・研究 女流日記』(日本古典読本第四巻、日本評論社、一九四二年)の註によれば《史記の一巻》は「五帝本紀第一」のことで《例の孝経》は「孝経」天子の章「愛親者不敢悪於人……」を三回読むとあります。読書の儀は七日間交代で奉仕されるのだそうです。

もう一カ所は御前(中宮)が個人的に楽しむために特別な冊子を作らせるというくだり。

 入らせ給ふべきことも近うなりぬれど、人々はうちつぎつつ心のどかならぬに、御前には、御冊子つくりいとなませ給ふとて、明けたてば、まづむかひさぶらひて、色々の紙選りととのへて、物語の本どもそへつつ、所々にふみ書きくばる。かつは、綴ぢ集めしたたむるを役にて明し暮らす。「何の子持か、冷たきにかかるわざはさせ給ふ」と聞こえ給ふものから、よき薄様[うすやう]ども、筆墨などもてまゐりつつ、御硯をさへ持てまゐり給へれば、とらせ給へるを、惜しみののしりて、もののくまにむかひさぶらひて、かかるわざしいづとさいなむれど、書くべき墨筆など給はせたり。
 局に、物語の本どもとりにやりて隠しおきたるを、御前にあるほどに、やをらおはしまして、あさらせ給ひて、みな内侍の督[かん]の殿に奉り給ひてけり。よろしう書きかへたりしは、みなひき失ひて、心もとなき名をぞとり侍りけむかし。

P472-473

御冊子は《紙を折重ねて綴じた書物をいうが、以下ここでは源氏物語の豪華な清書本が式部を中心にして作製される有様をのべていると考えられる。》。文中に《物語の本ども》とあるのが「源氏物語」の原稿だったようです。部屋に隠しておいたのを勝手に殿(道長)に持ち出されてしまいました。仕上げた原稿は失ってしまったので、持ち出されたのは草稿でした。あれではどんな評判が立ったか心配だなあ、といった感じでしょうか。

源氏物語第三十九巻夕霧 硯箱の前で手紙を読む夕霧
手紙は女文にふさわしく紅の薄様(薄い雁皮の紙)に金の砂子を撒いた華麗なもの 
『日本の絵巻1 源氏物語絵巻 寝覚物語絵巻』(中央公論社、昭和62年)より

さらに殿から贈られた特別仕立ての歌の書物たちがゴージャスです。

 よべの御おくり物、今朝ぞこまかに御覧ずる。御櫛の筥のうちの具ども、いひつくし見やらむかたもなし。手筥一よろひ、かたつかたには白き色紙、つくりたる御冊子ども古今 後撰集 拾遺抄。その部どもは五帖につくりつつ、侍従の中納言と延幹[えんかん]と、おのおの冊子ひとつに、四巻をあてつつ、書かせ給へり。表紙は羅、紐おなじ唐の組、かけごの上に入れたり。下には能宜[よしのぶ]、元輔[もとすけ]やうの、いにしへいまの歌よみどもの家々の集書きたり。延幹と近澄の君の書きたるはさるものにて、これはただけ近うもてつかはせ給ふべき、見しらぬものどもにしなさせ給へる、いまめかしうさまことなり。

P476-477

御櫛筥(おんくしばこ)
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道長と紫式部がかなり深い関係だったことがこの文章から分かるような気がします。


紫式部邸宅趾(京都市上京区:現在の御所の東側、寺町通り沿い、廬山寺)

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