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生ましめんかな 〜 1945年8月6-8日、広島

広島に原子爆弾が投下されたのは勿論 8月8日ではなく 8月6日ですが、栗原貞子が「生ましめんかな」という詩にした話は、(おそらくは多くの人に)これまで思われてきた 1945年8月6日の夜の出来事ではなく、原爆投下から 2日後の同年 8月8日に起きた実話だったようです(本投稿、最後の章の *1)。

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投稿タイトル上の写真として使ったこの写真は、75年前の広島においてアメリカ合州国の戦闘機による原爆投下後に撮られた有名な写真ですが、以下に掲載する、やはり実話に基づいた、そしてやはり有名な詩である「生ましめんかな」のモデルの母子ではありません。ただ、この詩にマッチする写真であるように思い、使うことにしました。

「にんげんをかえせ」の峠三吉と共に多くの人にいわゆる「原爆詩人」としてその名を知られてきた栗原貞子は、1913年3月4日に広島で生まれ、2005年3月6日に広島で亡くなっています。1945年8月6日に爆心地から4キロ北の自宅で被爆した時は、32歳だったことになります。

モデルとなった母と子、その子の方の小嶋和子(旧姓が平野なので、その姓名を略すと「平和」になります)さんは、広島への原子爆弾投下から 2日後の 1945年8月8日の夜に生まれました。彼女の母親は原爆投下による怪我人が避難していた広島貯金支局の地下室で産気づいたのですが、そこに偶然居合わせた、しかし自身も被爆して 40度近い高熱があったという助産師の女性が名乗り出て、和子さんを取り上げたのだそうです。へその緒は裁縫ばさみで切り、焼けたトタンをたらいにして産湯につからせたとのことです。 近所の人からその話を聞いた栗原貞子は、地下室でのその出来事がまるで宗教画のように感じられ、ひと息に詩を書きつけたと語っています(本投稿、最後の章の *1)。この詩は、1946年3月の作です。

生ましめんかな

こわれたビルディングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった。
生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生まれる」というのだった。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。
自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と.云ったのは、
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも

......................................

この詩の中では死んだことになっている助産師の女性ですが、実際には戦後も生きています。「とても動ける状態ではなかったが、本能的に『生ませんといけん』と思った。生まれたときは暗がりに光が差し、みんな痛みに耐えて喜んだ」と平野和子さん(小嶋和子さん)に語っています(本投稿、最後の章の *1)。

産婆になりましょう! Let Us Be Midwives! 〜 アーサー・ビナード Arthur Binard のお陰で知った「生ましめんかな」の英訳版

さて、アーサー・ビナード(Arthur Binard、1967年7月2日 - )という名のアメリカ合州国ミシガン州生まれ、現在広島市在住の詩人がいます。彼は俳人・随筆家・翻訳家でもあり、「九条の会」の会員でもあります。2001年には中原中也賞を受賞しており、とりわけ詩が好きな方、あるいは仮にそうでなくとも平和運動に参加している、もしくは参加したことがある人ならば、彼のことを知っている人は多いのではと思います。

アーサー・ビナードの存在は以前から知っていて、彼の著作を何冊か面白く読んでもいましたが、2016年1月、地元の「九条の会」の集まりで彼の講演を聴く機会があり、前から買って読んでいた彼のエッセイ集「日々の非常口」にサインをもらいました。気さくな感じの人でしたが、講演の内容も良く、聴衆を楽しませる話術がある彼の話は、聴く人を飽きさせないものでした(彼は日本政府には厳しいですが、その講演の中で日本だけでなく母国アメリカについても思いっ切り批判していました)。

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と、本投稿の主題とは関係ない「有名人からサインもらったぞ」自慢なんぞをしてしまいましたが(もっとも彼のことを知らない人からすると「何それ?」になってしまいますが)、本題に戻ると、この本(アーサー・ビナード著「日々の非常口」、新潮文庫)の154~156頁に、栗原貞子の詩「生ましめんかな」と、その英訳のことが書かれているのです。

アーサーさん、勝手に転載してごめんなさい✌️以下にその部分だけ、転載します。なお、1行目に「八月六日の夜」とあるのは、前の章で書いた通り、実際には「八月八日の夜」だったようです(本投稿の最後の章の *1 に載せるリンク先の記事もご参照ください)。 

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産婆になりましょう           
           
 一九四五年八月六日の夜、広島市のビルの残骸の地下室に、大勢の負傷者が避難していた。栗原貞子は「生ましめんかな」という一篇の詩に、その様子を描いた。

こわれたビルディングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった。
生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生まれる」というのだった。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。
自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と.云ったのは、
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも


 無防備の命の力感さと、原爆にさえもひるまない人間の、生物としての優しさを描き切ったこの作品を何度読んでも、胸と腹を同時にグッと打たれる。読むたびに翻訳したい衝動に駆られてきたが、「生ましめんかな」に見合う英語を探しあぐね、てこずったままだった。「生ませましょう」の意味だけストレートに英訳すると、物足りなく終わってしまう。文語体の「生ましめんかな」にはもっと深く根づいた、くそ度胸にも似た抵抗の意志が込められている。

 ミシガン大学の出版局から、栗原貞子の英訳詩集『Black Eggs』(黒い卵)が届いたとき、ぼくは真っ先に目次で 「生ましめんかな」を探した。が、そんなタイトルはどこにも見当たらない。百四十六篇をおさめた分厚い一冊で、代表作が入っていないはずはないのに・・・・・と、もう一度ゆっくり眺めると、「みんなで産婆になりましょう!」といった感じの “Let Us Be Midwives” が目につき、まさかと思ったら、それだった。

 ひどく違和感を覚え、半分否定しかけてから読み出し、最後には納得して、翻訳者のリチャード・ミニア一に脱帽した。「産婆」を複数にして大きく広げることで、「生ましめんかな」の度胸が英語に生まれ変わった。英語でもなんとも優しい、くそ度胸なのだ。

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英訳版「生ましめんかな」 〜 Let Us Be Midwives! 

Let Us Be Midwives! An untold story of the atomic bombing (by Sadako Kurihara, translated by Richard Minear)

Night in the basement of a concrete structure now in ruins.

Victims of the atomic bomb jammed the room;

It was dark—not even a single candle.

The smell of fresh blood, the stench of death,

The closeness of sweaty people, the moans.

From out of all that, lo and behold, a voice:

“The baby’s coming!”

In that hellish basement,

At that very moment, a young woman had gone into labour.

In the dark, without a single match, what to do?

People forgot their own pains, worried about her.

And then: “I’m a midwife. I’ll help with the birth.”

The speaker, seriously injured herself, had been moaning only moments before.

And so new life was born in the dark of that pit of hell.

And so the midwife died before dawn, still bathed in blood.

Let us be midwives!

Let us be midwives!

Even if we lay down our own lives to do so.


これは、前の章で書いた、日本在住で日本語で詩を書くアメリカ人詩人アーサー・ビナードの著書「日々の非常口」の中で紹介されている、ミシガン大学の出版局が発行した栗原貞子・英訳詩集の中に収められているもので、この英訳詩は、栗原貞子のプロフィールについての下記英文と共に、その下に併載するリンク先で見る(読む)こともできます。

Sadako Kurihara (1913-2005)

The poet, writer and peace activist Sadako Kurihara lived in Hiroshima and survived the atomic bombing of August 1945. She is best known for this poem Umashimenkana, translated as ‘Let us be midwives’. The poem is based on Kurihara’s own experience in a shelter under the Sendamachi post office in the aftermath of the destruction of Hiroshima. In reality, the midwife survived and was later able to meet the child she had delivered.

After the war Sadako Kurihara took up writing along with her husband Kurihara Tadaichi, and was fully engaged in the worldwide peace and antinuclear movements. In 1960 she wrote Auschwitz and Hiroshima: Concerning Literature of Hiroshima about the writers’ responsibility for remembrance. In 1969 she founded a citizens’ group Hiroshima Mothers’ Group against A-Bombs and H-Bombs and published an anthology of poetry about Hiroshima The River of Flame Running in Japan. The following year she started the journal, The Rivers in Hiroshima. She also edited journals, wrote essays.

〈ヒロシマ〉というとき 〈ああ ヒロシマ〉と やさしくこたえてくれるだろうか

栗原貞子が1976年に書いた「ヒロシマというとき」というタイトルの詩を、以下に掲載しておきたいと思います。これについては、この詩を冒頭に載せる note 投稿を別途、しようと思っています(今日中に投稿するかもしれません)。

ヒロシマというとき

〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と やさしくこたえてくれるだろうか

〈ヒロシマ〉といえば 〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば 〈南京虐殺〉

〈ヒロシマ〉といえば
 女や子供を 壕のなかにとじこめ 
 ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑

〈ヒロシマ〉といえば 血と炎のこだまが 返って来るのだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉と やさしくは 返ってこない

 アジアの国々の死者たちや無告の民が
 いっせいに犯されたものの怒りを 噴き出すのだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と やさしくかえってくるためには

 捨てた筈の武器を ほんとうに 捨てねばならない
 異国の基地を撤去せねばならない

 その日までヒロシマは 残酷と不信のにがい都市だ
 私たちは潜在する放射能に 灼かれるパリアだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と やさしいこたえが かえって来るためには

 わたしたちは わたしたちの汚れた手を きよめねばならない

「生ましめんかな」、広島への原爆投下直後に生まれた平野和子(小嶋和子)、そして原爆投下時の気象観測機パイロットだったクロード・イーザリー

些か強引に組み合わせた感もありますが、人間の誕生、運命には奇跡的に感じられるものや、数奇に見えるものがあるようです(「数奇」とは運命のめぐりあわせが悪いこととか、そのさま、不運、波乱が多いこと等、一般的にはネガティヴな意で使われる表現ではあると思うのですが、私はここで必ずしも否定的な意味合いで言っているのではありません)。

以下、脚注も兼ねて。

*1 平野和子(小嶋和子)さんについての記事。中国新聞(中國新聞)、広島平和メディアセンターのサイトで見つけた記事で、記事テキストの右上に (20)16年9月3日 と記されていますが、ここに紹介されている記事自体は、テキストの下に記載されているように、中日新聞の 2015年8月7日付朝刊に掲載されたものです。

*2 昨日投稿した、1945年8月6日の広島への原爆投下の際に原爆搭載機エノラ・ゲイ号の先導機としてのストレート・フラッシュ号に搭乗、気象観測と原爆投下が気象状況上可能かどうかの判断という役割を担い、エノラ・ゲイに「準備完了」「投下可能」を連絡するという重大な任務を果たした、当時のアメリカ空軍のパイロット、クロード・イーザリーについてのテキストも、合わせて読んでいただければ幸いです。

投稿テキストから一部、引いておくと、「彼はアメリカ国家とアメリカ社会から英雄視されるが、当のイーザリー自身は巨大な殺戮行為の影に怯え、自らの罪に悩み苦しむ。しかし、罪を意識するにもかかわらず、国家や社会は彼に罰を与えない。イーザリーは、社会が自らに罰を与えるべく、郵便局を襲って強盗するという挙にまで出る。しかし、彼が罰を求め罰を受けるに値すると考えた行為が『ヒロシマ』に関わることである以上、その彼の罪は、彼を含む一団に原爆投下を命令し、そのうえ彼を英雄に仕立て上げているアメリカの国家の罪に行き当たることになる。結局、イーザリーは英雄の役を降ろされ、精神病患者の役を演じさせられる。彼は決して演じていないが、国家が、社会が、彼の周囲が、彼にその役割を押し付けたのだと僕は思う。イーザリーは、精神病院に強制的に入院させられ、隔離収容されてしまった。」






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