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イスラエルによる国連安保理決議違反・軍事占領下のパレスチナ 〜 37年前の今日、1983年10月17日に滞在していたガザ地区

前説

1983年4月から 10ヶ月弱の間、バックパック担いで海外「放浪」の真似事をしていた。当時はそういう旅を「貧乏旅行」ということが多くて、実際、貧乏な旅人だったのだが、おおよそのルートは決めていたから、厳密には「放浪」とまでは言えないだろうと思う。横浜港からフェリーでロシア、当時のソ連に向かい、シベリア鉄道でヨーロッパへ、その後、フィンランドからギリシャまでユーレイルパスで 2ヶ月かけて南下、ギリシャでアテネとサントリーニ島に合せて 1ヶ月ほど滞在した後、以降はトルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプト、そして日本を発って以降初めての飛行機でカイロからイスタンブールへ、その後はまたトルコの旅、東へ東へと向かい、その先は陸路イラン、パキスタン、インド、北インドを旅した後はカルカッタから 2回目の飛行機でタイのバンコク、その後はバンコクから 3回目の飛行機で韓国のソウルへ、最後は韓国・釜山からフェリーで下関にて帰国、あとは広島に寄って広島平和記念公園と資料館を訪ねた後、実家のある静岡県に向かった。

その間、1983年9月28日から 10月18日までは、パレスチナとイスラエルの各地を巡る 3週間の旅だった。その最後、10月16日からの 2泊3日をガザ地区で過ごし、37年前の明日に当たる 1983年10月18日、ガザ市を発って陸路西へ、そしてスエズ運河を渡り、エジプトの首都カイロに向かった。

今のガザ地区はイスラエル側をイスラエルに封鎖され、エジプト側も事実上「封鎖」もしくはそれに近い措置がされ、前者、イスラエルによる人の出入りを徹底的に制限する軍事封鎖のためにガザ地区に住むパレスチナ人たちは同じパレスチナの東エルサレム・ヨルダン川西岸地区に行くこともできず、さらに物資の出し入れも厳しく制限されているために建築資材や医薬品なども満足に入らない状況で、そんな中で電気やガスなどの供給も制限され(一日のうち半分もしくはそれ以上の時間は停電)、水道水も汚染されているような有様。「世界最大のゲットー」、もしくは「天井のない世界最大の刑務所」あるいは「世界最大の強制収容所」と形容されるような劣悪な生活環境下にある。

イスラエルは東エルサレム・ヨルダン川西岸地区とともにガザ地区を、1967年の第三次中東戦争以降、同年11月22日に採択された国連安保理決議242号をはじめとする複数の国連決議に違反して今も軍事コントロール下に置いているが、現在は前者は占領、後者のガザ地区に関しては軍は撤退しているものの軍事封鎖の政策を採っている。

私が 37年前の今頃の時期に訪れたガザ地区は、東エルサレム・ヨルダン川西岸地区と同様、イスラエルによる軍事占領下だったため、街でイスラエル軍のジープや兵士などもよく見かけたのだが、一方で今現在のような封鎖下にあったわけではないので、ガザ地区のパレスチナ人がヨルダン川西岸地区やイスラエル領のテルアヴィヴに行くことなどは可能だった。10日前、つまり今年10月7日の note 投稿の際に、当時テルアヴィヴで会ったガザ地区のパレスチナ人たちの写真を掲載しているが、その時に会ったパレスチナ人と私はガザで再会している。

イスラエル側のボーダーだけでなく、当時のガザ地区のパレスチナ人たちはエジプト側のボーダーを超えてエジプトに行くこともできた。ただし、上記の通りでガザ地区全体がイスラエルによる軍事占領下にあったため、エジプト側に向かうためにガザ地区を出る時のパレスチナ人たちは、イスラエル占領当局から荷物などを徹底的に調べられていた(当然、ガザ地区からヨルダン川西岸地区やイスラエル内に向かう時も同様もしくはもっと厳しかっただろうが)。

当時、私はガザ地区を発ってエジプトのカイロに向かう際、欧米人旅行者などが乗った小綺麗な観光旅行者用の大型バスは使わず、パレスチナ人たちが乗るローカル・バスを利用して行ったため、まるで警察当局の取り調べに遭っているかのような周囲のパレスチナ人たちの様子を垣間見ることになった。私自身もイスラエル占領当局の係官に「アラブ人地区に泊まったのか」(イスラエル占領当局は Palestinian,「パレスチナ人」とは言わず、Arab とか Arabic,「アラブ」「アラブ人(の)」「アラブの」とかいった言い方をしていた)と質問され、「そうだ」と答えると、荷物をかなり詳しく調べられた。当時の日記に私は、その時に見たことや感じたことについて、パレスチナ人たちがとりわけこのような場で味わうに違いない「屈辱感」について触れながら、詳細に記している。

37年前に ガザで撮った写真


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(1983年10月16日。ガザの海岸。パレスチナ人たちの話では、「夕方7時以降と朝は、パレスチナ人は海岸を歩くことができない。イスラエル軍のジープが走り、兵士がいて、我々は立ち入りを禁止されている」とのことだった。)


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(1983年10月16日。筆者が訪ねた学校の車が走っているのが見える。)


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(1983年10月16日)


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(1983年10月16日。あの時の海外「貧乏旅行」の間、各地でいろんなものを見て、実に様々なことを考えたものだが、覚えていることの一つとして、「コカコーラ」資本主義。まぁ要するに、コカコーラというのは、開発途上国を含め、世界中ほとんど何処にも進出しているんだなという妙な感慨。)


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(1983年10月16日。真ん中が筆者。前の月の 911にシリアのパルミラで 23歳の誕生日を迎えていた。確かに身長は低い方だが、縦だけでなく横幅も .. 要するに、日本を経って約半年を経てだいぶ体重が落ちていたようだ。)


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(1983年10月16日)


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(1983年10月17日。この10日前、10月7日にイスラエルのテルアヴィヴを訪れた際にその日たまたまガザ地区から日帰りでテルアヴィヴに来ていたパレスチナ人たちと親しくなったのだが、その時の縁で、ガザ地区の学校を訪ねることになった。そこの教師やスタッフと一緒に撮った写真。色んな話をした。話の中身は当時の日記に書いてあるが、ガザに限らず、当時、東エルサレム・ヨルダン川西岸地区、そしてイスラエル国内で会ったパレスチナ人たちの話は、実に興味深いものだった。)


パレスチナと中東、その過去・現在・未来 〜 note マガジン

今日の投稿では「パレスチナ問題」の背景や歴史、現状などについて詳しく書いていないので、これまでの関連投稿を収録したマガジンへのリンクをここに置く(現時点で一点だけ、私でない他者の投稿も入れてある。また、パレスチナ以外の中東地域、イランやレバノン等についての投稿も含まれる)。


パレスチナ・ガザ地区の 今 を知るために

以下、今日は 3点だけに関し、リンクを置く。

1) 3年ほど前、2017年7月20日に Facebook 上にアップされた約 1分30秒のヴィデオだが、ガザ地区の現状は今も変わらない。今現在は更にコロナ禍が加わっている。このヴィデオにある通り、既にこの時、イスラエルによる厳しい軍事封鎖下にあるガザ地区は 2020年までに人が住めない地域になってしまう恐れがあると国連は言っていた。そして今、ジュネーヴ条約にも抵触するような封鎖政策や爆撃、デモへの弾圧、デモ参加者の射殺等に見られるような、イスラエルが続けるパレスチナ人に対する人権無視・反人道的政策に対して国際社会が実効性のある措置を全く取れないまま、既に 2020年になってしまっている。


2) 1953年イスラエル・テルアヴィヴ生まれ、イスラエル在住のイスラエル人(ユダヤ人)であり、ジャーナリスト・作家である Gideon Levy が言っていること。

Gideon Levy はイスラエル紙 Haaretz にオピニオンを寄稿し、コラム記事を書いているが、彼はしばしばシオニスト達によって、ガザ地区のイスラム原理主義グループであるハマスのためのプロパガンダをしている人間だなどと極めて的外れで愚かなレッテル貼りをされて非難されている、彼自身イスラエル人であり、ユダヤ人である。

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3) 筆者の過去の note 投稿から 2点。

それぞれの投稿タイトルの上に写っている写真は、ガザ地区で生まれ育ったパレスチナ人の少女。彼女は白血病と闘っていた。

ガザ地区ではイスラエルの軍事封鎖政策や度重なる爆撃のために病院の多くの設備が機能不全に陥っており、こうした重篤な病気の治療のためには、ヨルダン川西岸地区にある病院に入院して高度な治療を受けることが必須となる。しかし、イスラエルはこうしたケースでさえ、ガザ地区からパレスチナ人が出ることをなかなか認めようとしない。

ようやく許可が降り、昨年12月から彼女はヨルダン川西岸地区のナブルスという街にある病院に入院して、化学療法による治療を受けていたのだが、孤独な闘病の末、悲しいことに本年 2月末に、同病院でその短い生涯を閉じた。イスラエルによるガザ地区封鎖政策のため、このたった10歳の少女の最期を、ガザに住む両親は看取ることができなかった。


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