僧侶の傍ら根付を彫る

浄土真宗大谷派僧侶見習い。 小さなお寺で、こりこり木彫根付を彫りつつ 家事と育児に慌て…

僧侶の傍ら根付を彫る

浄土真宗大谷派僧侶見習い。 小さなお寺で、こりこり木彫根付を彫りつつ 家事と育児に慌てふためく日々。 【YouTube】Daishin′s netsuke 【Instagram】@netsuke_daishin

最近の記事

価値

価値とは難しいもので、なんでも価値をつけたがるのが人間です。できるできないで価値をつけたがる事はよく体験もするし、自身も思いがちです。これができるから価値がある。できないお前は価値がない。俺は知っている、お前は知らない。だから俺の方が価値がある。 そういう価値で人も自分も評価していく。はて、その価値は誰にとっての価値なのか。意味もそうですね。意味をつけたがる。意味があるのかないのか。 世間を生きる上では仕方ない気もします。ただ世間の法で全てを生きると、激しく競い合う生き方にな

    • 先日の続き

      先日の「三つの髻」の話は昔に習いました。 当時、仏法を学ぶ学舎にいながらも、全く顔は向いてませんでした。しかし、その時を思い起こすと頭に浮かぶワードのひとつです。 それから幾つかの寺で法務を手伝い、地元に帰り10数年、そのことも忘れ木彫りに一生懸命生きていました。寺とは離れられないと思っていたので何となく付き合ってきました。正直出会った僧侶の6割は屑人間ばかりに思えて余計積極的に仏法を見る事はありませんでした。今、永き時を経て再び仏法に出遇う機を得ています、多分。同時に私自身

      • 5月か…

        3つの髻(もとどり)という話があって。 何が3つというと ●勝他(他より勝っていたい。負けたくない。) ●名聞(名声、名誉、肩書きが欲しい) ●利養(良い思いをしたい。) …まぁ、煩悩の話しでして。髻ってのはなんていうか、髪を束ねた部分だったかしら。 まぁつまり煩悩とは身に備わっているんですね。 それぞれに執着してしまうがゆえに自ら迷い苦を生み出していくのです。 都合でしかモノを見れない救われ難き身が備わっています。 そういうものに左右されがちなので、その身に頷きながら歩い

        • 苦あり苦あり

           毎日少しずつ大量の本を読む。とは言え時間がなかなか取れない中でちびちびと。色々読んでいるがとりあえず『観無量寿経』周りと『維摩経』を。  仏教は内観、いや自分のことすらまともに理解できない我が身を知っていく沼だと思う。終わらないし、終わったと思ってもひと時だ。 改めてゴウタマが悟った真理の系譜に感嘆しながらも頭の理解は遅いので現代人の感覚とのバランス取りが難しい。今持ってる本も一回読んでもよく分からないので何周かしなきゃならんのかなとも思うけど…未読本が多すぎる。まぁ頑張ろ

          何回目かの誕生日

           今日は誕生日でした。バタバタとしているうちに終わりそうです。日常として日常を味わう一日でした。単純に祝うものでもないのでコレでいいかなと思います。生まれる事は苦悩する始まりでもあります。生きる事は苦しみと煩悩を纏う事でもあります。生まれてこなきゃ良かった、とは言いませんがそう感じる人もいるでしょう。  どう生きて、どう滅していくのか。考える事は体力と気力がいる事かもしれませんが、気がついたら終わってたなんてゴメンなのでもう少しもがいてみようと思います。 とはいえ人間にできる

          全ては散りゆく

           庭の目連がそろそろ満開を迎えます。大きな花で、その純白の花弁は青い空にとても映える。しかし桜より早く咲き、桜が咲く頃には散っている。とても早く散る。なんとも儚い花か。  人生もまたそうだ。儚い。花はただ咲き、ただ散る。人は迷う。足掻く。最終的にはお任せするしかないのだが。

           人は都合でしかものが見れない。自分にとって良い人は都合のいい人。逆なら悪い人。まぁそんな身。自分もそう思われているんだという事かな。そんなお話を聞くとそうだなと頷く

           人は都合でしかものが見れない。自分にとって良い人は都合のいい人。逆なら悪い人。まぁそんな身。自分もそう思われているんだという事かな。そんなお話を聞くとそうだなと頷く

          人間の転換

           と、書くとイメージがグロい。 意識の転換かな。仏教的には回心かしら。  自分は自分に囚われています。都合でしかものを見れず、都合で生きてきた人生です。今もそうだと思います。ただこの頷きは大事なのかなとも思います。  作品作りもものの見方次第。もちろん続ければ技術は上がります。しかし、見方が固定されると表現は停滞する。 全ては移り行くのではあるが、表現は停滞する。 実感です。 さて、真宗は南無阿弥陀仏という。 それは我が身を照らすはたらきです。 自身を見つめ、自身に頷く。

          某アンパンマン

           Xやblue skyは文字数が厳しい。が、それは作品で語る力もなく、もはや作り手かどうかも怪しい私だからなのか。自身の戯言を自身に言い聞かせる。最早そのための媒体になりつつあるsns。計画性もなく彫り進め、没を量産し反省を繰り返す。理想の姿は最早遠い。  吐く息が作品となる。人が生み出すものは人をあわらす。今の歩みを見るに必然かとも思う。良いとか悪いの問題でもない。結局のところ、理想なんぞ打ち捨てて今を生きるしかない。事実を事実として見れないから人は迷う。  幼児の世界はア

          月愛三昧〜聞くと云う事〜

           毎日が戦争である。家庭は燃え盛り、火種はありとあらゆるところにある。思い通りに行く事は無く、ほんとに家ごと捨てて出家してやろうかとさえ思う。なんでアイツはあーなんだ。何で余計な事言うんだ。何でコイツはこーなんだ。いつもいつも同じ事繰り返してて! とはいえ、他人事では無く自分もまた同じである。迷い迷って苦しむのが人。全ての原因を外に、内のことは何一つ見ない。 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて」 善導大師の言葉です。 いつもは外面よく過ごしているが、内は

          月愛三昧〜聞くと云う事〜

          日々是苦悩

          ⚪️願いとは  やたらカリカリしてるような人っていますよね。余裕がないのか、外から見てるとそう見える人。実際聞いていないのでわかりませんが、外からはそう見える。上手く接するよう努めますが、他人事というわけでもなく、私も割とイラつきやすいのである意味私の課題ですね。外ばかり見て、自分を見ないのはいけません。わかっちゃいるけどやめられない、はその通りですが、だからといって放置したままでは結局は自分が苦しむだけです。「諦める」は間違いです。「あきらかにする」が正解です。自身を見

          子供にと思い奴を彫る

          ⚪️法話挑戦  お葬儀や法事で話すは話す。しかし教義的なことをうまく伝えられているかといえば怪しいものだ。雑談の中に仏法を混ぜる程度の話しかしてこなかった。 東本願寺は法話の資格のようなものがない。私のようなものはきっかけがないといつまでもボーッとして、自分の問題にさえ気が付かないだろう。去年の末から真面目になろうと思い、学び始めるも未読の本が増えていくだけ。とはいえ短いながらも法話を話す日を決めたので、自分なりに準備している。徐々に慣らしていこうと思う。 まずは30分

          子供にと思い奴を彫る

          いまをいきる

           つもりに積もった雪も溶け、もう一月も終わりが近づく。光陰矢の如し。まさに時は止まることなく駆け抜けてゆく。今今をどう生きるかを改めて問われてきます。まだウチは新聞をとってるんですが、一枚めくると「金」「名声」「欲望」「分別」「怒り」。全てはほぼほぼこの要素で構成されている事がよくわかります。紙面を見る私の眼鏡もまたそのようなフィルターがかかっているのでありますが。さて、どんな美辞麗句を並べてもそこには必ず潜むものがあります。純度100%の光は人にはない。 必ず影を産み堕とし

          雪ふる

          ○天気予報  去年も同じくらいの時期に降りました。 まぁ…予定さえなければ雪かきするくらいなので子供ご心がムクムク顔出し「良い天気」。しかし、大事な予定でもあった日にゃー…その予定が潰れると「悪い天気」に早変わりする。 ま、天気に良いも悪いもなく、人間が各々決めているだけです。 自分の都合次第。 どこまでいっても都合でしかものを見れないから、苦しむんですね。思い通りにいかないと。 これは治りませんね。 「こうすればいいですよ」と助言めいたことを言うものがYouTubeやT

          迷い迷いて龍を彫る。

          人の中で平等は成立しない。 釈迦牟尼世尊はこう言った。 「人は生まれによってではなく、行為によって貴賤がきまる云々」…なような感じだったと思う。 しかし「行為」というのもまた人の中では分別の対象である。大乗の阿弥陀という無限に触れた時のみ人は「平等」になる。無限は一を足しても、百を足しても、一億を引いても無限である。無限の前で数は意味を成さず、無限において全ては等しくなる。人の枠の中ではどの様に美しく飾り立てた言葉も空虚なもので、なんの真実もない。すぐ転ぶし、不変なものはない

          迷い迷いて龍を彫る。

          南無阿弥陀仏

           南無阿弥陀仏ってなんだろう。 阿弥陀様?なんで様ってつけるの? この辺の疑問は未だスッキリしません。 仏教は因縁果。南無阿弥陀仏と分かっても分からんでも称えているなら、それを「果」とするならば、「因」は法蔵菩薩の願いに向かう。 なるほど。 でもそれってお話よね? いやそのお話ができて念仏の教えがうまれたのだ。お釈迦様にそう説法させる「因」があったのだ。そう本に書いてあった。 念仏しろといわれて、「はい、分かりました」と言うのは簡単だ。でも心からの「はい」はなかなかでてこな