加代ちゃんの背中は誰が押したのか?

■ はじめに

映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』のレビューです(ネタバレあり)。この映画は北九州映画サークル協議会の9月例会(9/22@イオンモール戸畑)で見ました。非常に面白かったし、心に残る作品だと思う一方で、後述するように納得いかない部分がありました。それで、他のレビューや原作(マンガ)など読みながら数日考えて、こうかもなあと納得がいく自分なりの仮説にたどりつき、よりこの映画が好きになった気分です。さらに、この仮説によって、原作と映画とで違うラストシーンについての見方が変わり、原作との繋がりが見えるような気がします。以下の文章を読んだ人が、これからこの素晴らしい作品を見るとなれば幸いです。

■公開されているストーリー

高校一年生の志乃は上手く言葉を話せないことで周囲と馴染めずにいた。ひとりぼっちの学生生活を送るなか、ひょんなことから同級生の加代と友達になる。
音楽好きなのに音痴な加代は、思いがけず聴いた志乃の歌声に心を奪われバンドに誘う。
文化祭へ向けて猛練習が始まった。そこに、志乃をからかった同級生の男子、菊地が参加することになり・・・。

■ 素直に見ると

この作品は、<普通>であることを強要する社会と、そこからはずれて普通に振舞えないでコンプレックスを持つ人を描いていると見ることができます。主人公の志乃ちゃんは吃音ですが、吃音に限らず、人はなんらかのコンプレックスや悩みを持っており、誰でも共感できるように描いてあります。
実際、この作品の中で、志乃ちゃんの症状を「吃音」「どもり」と表現した箇所はなく、原作者によると、それは意図的にそうしているとのこと(原作の「あとがき」より)。

この映画を見た人は、自然に主人公である志乃ちゃんに共感するんだろうと思います。みんなが持っているコンプレックスを、分かりやすい形で持って、なかなか一歩が踏み出せない姿が丁寧に描かれています。私も当初はそう思って、主人公に感情移入して見ていたように思います。ただ、この映画(原作ではなく)の凄さは、実は一緒にバンドをやる加代ちゃんの描き方にあるんじゃないかと思うようになりました。

■加代ちゃんは鋭い

原作でも映画でも、加代ちゃんは、あまり感情を表に出さず、淡々とした感じで描かれています。不機嫌そう、怒ってそうと見る人もいるかもしれません。

志乃ちゃんは、加代ちゃんの歌を聞いて笑ってしまって、それでケンカします。志乃ちゃんがしゃべれないことを加代ちゃんは笑わなかったのに、自分は笑ってしまって最低な人間だ、というように謝ります。この時、加代ちゃんは以下のようにいいます(月刊シナオリ2018年8月号より)。なお、この部分は原作のマンガにはありません。

加代「・・・・・・いいよね、あんたは」
志乃「え・・・・・・?」
加代「言い訳があって・・・・・・」
志乃「・・・・・・?」
加代「いろいろさ・・・・・・しょーがないって思ってもらえんでしょ」

この台詞から、「自分は、しょうがないって思ってもらえない」と加代ちゃんが思っていることが推測されます。自分にもコンプレックスがあるのに、ある意味不公平というわけです。この点は、結構気付きにくいポイントだと思いますが、それに加代ちゃんは気付いているわけです。あるいは、映画では、加代ちゃんをそのように描いているわけです。

■疑問:加代ちゃんの背中を押したものは?

二人で文化祭にでようということになるのですが、結局、加代ちゃん一人で歌います。この歌で志乃ちゃんは感情を揺さぶられ、いままで表に出さなかった感情を出すというのがクライマックスのシーンです。

それで、主人公の志乃ちゃんが、何か一つの壁を越えられたような感じで、ストーリーとして問題はないようにも思えるのですが、私としては、なぜ加代ちゃんは下手と自覚している歌を人前で歌ったんだろう、というのがイマイチ腑に落ちない感じです。ストーリーとしては、志乃ちゃんを勇気づけたわけですが、なぜ他人のために自分の恥をさらしてまで、という気がします。

志乃ちゃん側から見ると、志乃ちゃんの背中を加代ちゃんの歌が押してくれたので、一歩を踏みだせたわけですが、加代ちゃんは何に背中を押されて一歩を踏みだしたのだろう?と言い替えてもよいです。

■志乃ちゃんを見ていて、自分の矛盾に気付いたのかも

バンドを組んだり、文化祭に出ようといったり、曲を作ろう(歌詞を書いて)といったり、この作品の中では加代ちゃんが志乃ちゃんを引っ張っていきます。でも、初めて路上で歌った時、最初は加代ちゃんもギターがうまく弾けず、かなり緊張している様子でした。まったく弾けないので、志乃ちゃんは、もう帰ろうと言うのですが、この時、加代ちゃんは

加代「はじめて・・・・・・部屋から出られたんだから・・・・・・」

と言います(月刊シナオリ2018年8月号より)。つまり、いままでは部屋から出られなかった訳で、志乃ちゃんと一緒になって初めて部屋から出られたと推測できます。その意味で、志乃ちゃんの存在を支えに、前に進めたのでしょう。

他にも、路上で歌うことや文化祭にでることに尻込みする志乃ちゃんを、「ここまできたら知り合いはいないよ」とか「どうせ本番は人前でやらないといけない」などと説得するたびに、それは実はブーメランのように自分に言い聞かせていたように思います。

上の「いいよね、あんたは」は「しゃべれないことを理由にしていればいいんだから、いいよね、あんたは」という意味も含んでいるでしょう。ただ、ここまで考えると、鋭い加代ちゃんは同じことが自分にも言えると気付いたんじゃないかと思います。つまり、「歌えないことを、前に進まない理由にしてればいいんだから、いいよね、あんたは」というわけです。

クライマックスのシーンで、志乃ちゃんはそのままの自分を受け入れるような発言をしますが、問題はしゃべれるとかしゃべれないとか、歌える歌えないとかではなくて、そのままの自分をまずは受け入れることが必要で、そのことを、加代ちゃんは、志乃ちゃんを引っ張っていく過程で敏感に気付いたのではないかと思います。

このことに気付いたのは、志乃ちゃんのお陰で、このことを志乃ちゃんに伝えて、できれば変わってもらいたかったのかもしれません。でも、口で説明しても駄目で、行動で示すしかないと思ったのではないでしょうか。だから歌が下手にもかかわらず、自分で歌ったのではないかなあ、ということです。

このレビューをリーダーシップの記事として書いたのは、以前、自炊塾が生まれたキッカケ:閃きとリーダーシップの関係に書いたように、まず自分を変えて、その後、人を変えることがリーダーシップという立場なので、(ここまで説明した仮説の通りだとすれば)加代ちゃんはまさにそういう行動をとったんだなあ、と思ったからです。

自分を変えることは難しいのはよく理解できると思います。でも、その難しさの本質は、そもそも自分の変えたいところに気付くことが難しいところにあります。これは、多くの場合、無意識の部分に欠点があるためで、加代ちゃんは、志乃ちゃんを通して、この難しさを乗り越えたのではないかと思います。一方で、志乃ちゃんは、加代ちゃんのおかげで、具体的に行動するという、もう一つの難しさの方を克服できたのでしょう。

クライマックスのシーンで、志乃ちゃんの発言を聞いた加代ちゃんは、駆けよったりして、感動的な再会!ってわけでもなく、ただ下を向いて優しく微笑んでいます。上で説明したようなことを考えると、一歩を踏み出した者同士、もう大丈夫だね、という感じでがして、より自然に理解できるような気がします。

■ こう考えるとラストシーンが...

原作と映画ではラストシーンが異なります。映画のほうは、ちょっとほろ苦い感じで、原作のラストシーンとはだいぶ違います。監督や脚本家のインタビュー等から、原作の雰囲気をできるだけ活かそうとしていることが伺えますが、原作とはだいぶ違った印象で、なぜこうしたんだろうと違和感も残ります。

でも、ここまで説明したような解釈をすると、映画のシーンがあって、その何年か後の原作のラストシーンにつながるのではないかと思えてきました。つまり、すでにそれぞれに自分を受け入れることができたので、一緒に活動することもあるし、でも、ずーっと横にいて支えあっていけないということではない、という意味ではないかなと理解しました。

いただいたサポートは、リーダーシップに関する本の執筆に必要な費用として、使わせていただきます。