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読書の時間

 時には黙って、時には口に出して自己と静かに対話をする、それが読書である。もちろん、その本の作者は直接自分には何も言ってくれないし、本の感想を求めることもしてくることはないから、何が正解ということもなければ、途中で読むのをやめてしまってもそれまでだが、それだけに読書というものは、読んだ本人が自己完結しなければ成立しない行為である。

 私はこの読書という行為、時間が昔から非常に好きであった。子供の頃、週末は地元の少年野球や少年サッカー、塾に通っている友達と一緒に過ごすことはなかったから、私は図書館で借りてきた本や、親から買ってもらった本を片手に、土曜の午後やひとりぼっちの時間を文字通り「ひとり」で過ごしたものだった。その時は○○くんと遊べない私であるから、それは退屈で残念な土曜の午後ではあったのだが、一度(ひとたび)本に向かうとそんなことはどうでも良かった。

 部屋には時の経過を刻む時計の針の音だけがコチコチと響き渡り、たまに外を通りかかった廃品回収のおじさんの一本調子な声が聴こえてきたり、妙に色っぽい声で「物干し竿」を売るお姉さんの声が聴こえてきたりするだけだった。どうしてよりにもよって「物干し竿」を売る声が、舌足らずの甘えた色っぽいお姉さんの声だったのだろう。たまたま別の日、外を歩いていた時、物干し竿を括りつけている軽トラとすれ違った。きっと色っぽいお姉さんだと思い、顔を見てやろうと軽トラに近づいたが、運転していたのはお姉さんではなくおじさんだった。どうしておじさんがあんな色っぽい声なのか、私は不思議でならなかったが、助手席にもどこにも色っぽいお姉さんは乗っていなかった。その色っぽいお姉さんの声はテープに録音されたものであったのだった。

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