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無音の中で

ここ数年、私は人の声というものが何だか酷く、耳障りで仕方がない。

それは別に、近くで誰かがお喋りに興じていることを指しているのではなく、テレビの中でバカでかい声で話している話し声や、取り立てておかしくもないのに大笑いしている笑い声や、そんなに上手い訳でもないのに歌番組で切々と歌を歌っている声、世界の悲惨な情勢を理路整然と原稿を読んでいるアナウンサーの声等、挙げたらキリがないのだが、とにかくテレビの中の人間の声が、いやに耳について仕方がないのだ。

別段、彼らに恨みがある訳でもないのだが、テレビの声が妙に耳に障って仕方がないので、私はいつの頃からか、音を消してしまう癖がついてしまった。

それと画面の端に酷い時は2箇所も出て来る、あのワイプとやらが目障りで仕方なく、私はタオルを引っ掛けたり、新聞を立てかけたりと、ワイプが目につかないようにするのも習慣になってしまった。

ラジオは、声のみが唯一の発信源であるから、その対象物として聴こうという前提があって、スイッチを入れるものだが、脚本家の橋田壽賀子さんも言っていたが、テレビはきちんと観ない、ながら観だから、自分はセリフを長々と書いて、状況を役者に説明させるのだと言う。

とは言え、観たいものはしっかり身構えて観るので、橋田さんが仰っていたことも私にはちょっとばかり的外れな気はするのだが、それは私のような者にではなく、世の中の忙しい主婦の方々のことを言っておいでなのだった。

ありがたいことに、今のテレビは字幕がついているので、わざわざ音を出す必要もない。

番組とコマーシャルとで音量が違うので、酷く驚かされるし、さっきまで不治の病でベッドに横たわり今にも死にそうだったヒロインが、けろっとした顔で元気溌剌と化粧品のコマーシャルに登場なんぞされると、酷く興醒めするものだ。

先日の、24時間テレビの中のスペシャルドラマも、とても良い内容だったが放送の仕方が余りにも残念で酷だった。

ドラマとコマーシャルの間に、24時間マラソンの実況をいちいち挟み込んでいたのだ。

ドラマは『無言館』という、長野県にある戦没画学生達の絵を集めた美術館を作った男性・窪島誠一郎さんの半生を、その絵を描いた戦没画学生と、その家族や恋人達のことを基にした、素晴らしい題材であったにも関わらず、スポンサーであるコマーシャルは致し方ないにしても、あのテレビ番組の中の企画であったために、ドラマの世界に浸る余裕もなく、私は些か悲しかった。

このドラマの中に登場した、絵のモデルを努めた女性が、半世紀の時を超え、この美術館に展示されているその絵と再会を果たしに、ひっそりと来館していたエピソードは、NHKで既に、この『無言館』の館長である窪島誠一郎さんの隣で、吉永小百合さんが朗読した番組が放送されていたので、私はどんな内容か知っていたものだから、それがドラマとなるとどういう作品になるのか、とても興味があったのだが、残念なから余韻も何もなかった。

今は、テレビは観せてもらう時代ではなく、観てもらう時代に取って代わった。

だから、私が耳障りだなと思えば音を消してしまえば良いのだし、最悪、テレビ自体を消してしまえば良いだけの話なのだが、それでも私がテレビをつけているのは、やはり、どこかテレビにもう一度、観せてもらいたいという、ほのかな期待があるからなのかもしれない。

家族揃ってテレビを観るという時代も年齢も、私自身、とうに過ぎ去ってしまったが、それでも誰かと一緒に観たいなと思わせる、そんなテレビの時代をもう一度、取り戻すことが出来たならもう少し、日本人も今とは違った感性になるのかもしれないが、それを期待している私は時代遅れで愚かな人間なのだろうか。

2022年9月7日・書き下ろし。

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