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雨の日に、素麺。

雨が降っている。

引っ越したばかりで、まだこのあたりの路線には慣れない。とはいえ、小さな電車が走る、空が高い町だ。線路沿いに、少し店が並ぶ。線路の向こうに、軽くサッカーでもできそうな昔ながらの原っぱがある。食料品、服、本、飲食店などなど、少ないけれど必要十分な陣容の駅前店舗たち。「この出汁ポン酢買ってきて」と雅子に言われたものと、すりゴマ、大葉、などを買って、線路の踏切を渡って、ビニ傘さして雨に打たれながら帰る。

帰宅したその家は、小さなキューブ状の家が数軒、テラスのような橋でつながって行き来できるような作りをしている。斜面の下から建物の本体が上に伸びてきていて、僕は建物の上の階から伸びてきているテラスに、丘の上の地面から踏み込んだ。テラスも雨に濡れている。家に戻る途中、右手の家からラジオでよく聞いていたような男の声が聞こえた。ラジオでなくて、地声だ。その声の本人が、僕を掃き出し窓の奥から呼ぶ。

「大介、メシ食おうよ。ウチのやつ、まだ帰ってこないんだよ」
「いいっすよ、雅子さんもまだだし」

新品の出汁ポン酢などはいったん自宅のキッチンに仕舞い、使い切る寸前の雅子手製の出汁ツユやゴマだれやネギなんかを掴んで、彼の家のキッチンに上がり込む。薬味野菜を刻んで、湯を沸かし、素麺を茹でて、ゴマだれを出汁ツユと合わせ、茹でた素麺を冷水で締めて、2人分を盛り付けた。

彼が出してくれた、冷水で割った焼酎かなにかを乾杯して一口。素麺をゴマだれツユに絡めて食う。雅子が薦めた出汁ポン酢で食べたかったが、帰ってくるまで待つしか無い。

「……うん、やっぱ美味い。ウチで真似して作ってみたんだけど、やっぱ雅子さんのツユの方が、美味いわ」

彼がそう言いながら、素麺をすすり込む。

「そうでしょ。美味いんすよ」
「ね。……雅子さん、いつ帰ってくんだろね」
「いや、大丈夫ですよ。あと…明日とか、明後日ですよ」
「そうだね」

そんなことを言いながら、二人で雨の外を眺めている。
そうだ。もうすぐ雅子さんは帰ってくる。
おれは雅子さんを待っている。
……待っている?

雅子さんを?待っている?
待っている?てことは?
生きているのか?雅子さんは?

と思った瞬間に、目が覚めた。

夜勤明け、帰宅してからの仮眠だったのだ。そして素麺の一幕は夢だった。
床には、昨夜からクローゼットの肥やしになり、靴棚の肥やしになっていた、形見分けしきれなかった雅子の遺品を詰めた大きな段ボール箱が2つ積んである。これをどこに持って行こうか…と思案しながら仕事から帰ってきて、ソファで仮眠していたわけだ。

そこであんな夢を見た。

亡くなってから今まで、夢の中で雅子に会ったことは、少ないけど何度かはある。
夢の中で雅子を探したことも何度かある。夢の中で雅子が待つ場所を目指したこともある。

だから「帰ってこないはずの雅子を、帰ってくると思って待っている」状態もさほど変わりないはずだ。なのに「もう帰ってこない」ことにあらためて気づいたときのショックは、結構キツかった。なぜか。

クシャクシャで見向きもされないような服や靴をいよいよ片付けよう、としていたからなんじゃないか。間違いなく、思いは残っている。もしくは、空から雅子本人が何かを伝えようとしていたのか。

でもやるしかない。誰も着ない履かない服や靴を置いていてもしょうがなくて、形見分けはやるだけやった。最初に決めたとおり「情報は集める・物品は手離す」残すべきものはできるだけ圧縮して、他のものはどんどん手離して「空ける」のだ。新しい人生が入ってくる場所を。

そう決めただろう。

7/26(金)に映画を封切って、8月中旬の京都での舞台挨拶から帰ってきてから、なんだかずっと薄い倦怠感があった。そりゃ亡くなってから4年半、夜勤と並走しながら雅子と映画にみっちり関わってきたのだ。看病のときから数えれば6年になる。夜勤して、昼間は看病、夜勤して、昼間は映画…。正直、疲れが来てるんだろう。それをどうにかするには、整理だ。滞留して身体に心に絡みつく「過去」をエイヤと押しのけて、未来への視界を拓くのだ。

気がついたら、なんだか目や鼻の下が濡れていたが、ついでに要らんものも出てくれたんじゃないだろうか。思い切って台車にダンボール2箱を載せクルマに積み込み、何度もお世話になっている「救世軍」に向かった。2箱をサッとおろして係の男性に任せ、クルマでその場を離れた。

今日の晩飯は素麺にしよう。
食べたらまた、今日できるだけの「整理」をしよう。

ただ、今日の夢は、しばらく忘れないだろう。
夢の中の僕は、その変わった家のキッチンで、花と葉がプリントされた夏向きのシャツを着た雅子が、軽く料理をしている様を想像しながら、素麺を食べていたのだ。

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これも、雨の日の雅子。

横浜 シネマ・ジャック&ベティ 公式サイト

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