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COVID-19は人類を進歩させたのか。

気づけば前回のnoteから半年経ってしまっていた。
書きたいことはあるが、以前は書く時間に充てていた時間が子どもが生まれたことにより家庭に割かれてしまい、結果的に筆が進まない状況になってしまった。書く時間をどう確保するかは、自分が生きていく上で割と大切なのかもしれない。

春くらいにふと違和感を覚えたこのテーマを、書いてみることにする。

COVID-19が発生して考えていたこと

COVID-19が世界や日本で流行してから1年半くらいが経つことになる。
1年前、何を考えていたのだろうかと、ふと思い返してみた。

私が考えていたのは「この事象で社会は大きく変化し、人類は少し進歩するのではないか」ということだ。
どのように社会が変化して、人類が進歩するかまでの明確に言語化できるようなイメージと確信はなかったが、見返すとnoteにもその欠片に近いものを書いていたようだ。
うーむ、意外と真面目なことを真面目に言語化していたみたいだ。

なんとなくキーワードだけ拾っていくと・・・

・進歩や生産性向上を最上として追求する資本主義優位な価値観や社会システムが見直されるきっかけになるのではないか。
・そういった意味では、よりローカルな地域に存在するコミュニティというものや循環型の経済や、規模を追い求めるわけではない、新たな「持続可能性」に関する価値観が浸透していくのではないか。
・その中で、もっと自然というものと人との関係性や付き合い方が見直されるのではないか。よりエコシステムという概念が重視され、多様性を認め合い、異なる価値観を許容できるような感性を持ち得るのではないか。
(そういえば「ウイルス」という存在そのものが、生物や種の中の多様性というものと密接に関係があるものである)

そんなことが、時間的にも少し早く、そして地域規模としてもインパクトが大きく変わるのではないかと予測した。そのことは、多分ヒトという種族や、それを取り巻く自然や、地球というエコシステムをもっと持続可能にするものであり、そういった意味で人類は進歩するのではないかなと感じたものだ。

東日本大震災を経て、日本人の価値観は少なからず変化が起きた気がする。
それと当たらずも遠からない事象が世界的に発生しているからこそ、その変化は大きなインパクトになるのではないかなと。

東日本大震災で発生した価値観の変化(私見)

東日本大震災の時、私は大学3回生で、京都にいた。特にその被害はニュースでしか見聞きせず、ボランティアにも行かず、どこか遠い世界の話であった。
当時は応援団というなかなかに狂気じみた団体にいて(揶揄してますが、応援団は大好きで今でも誇りですw)、目の前の活動に夢中であった。

それ故に、自分自身の価値観が東日本大震災で変化したという身を持っての実感はあまり感じていないのは事実だ。
よって、それを持ち合わせる言葉や分析は自身の中には全くなく、研究によってまとめられたレポート等の文献情報しか拠る辺がないので詳しくはそちらに譲る形にはなるが・・・

ネットでざっと調べたところなんとなく以下の変化があったようだ。詳細を書くとキリがないのであくまでざっと(面倒くさいというのもあるw)。
・家族に対する意識
・ボランティアや自助共助といった、身の回りのコミュニティに対する意識
・自らの生き方や仕事というものへの認識
・社会問題に対する関心やそれに対するアクションについて
・防災、安心、自然に対する意識 etc...

項目だけ言語化するととても陳腐になってしまう印象だが、おそらくは何かしら価値観が変化した人は多いに違いない。自らの生き方、大切にしたいもの、多くの人が社会システムや慣習によって無意識的なステレオタイプに植え付けられてきたそのようなものに対して、改めて向き合い、自分なりのそれらを深く探っていくようになったのではないだろうか。

特に、東日本大震災はボランティア等で関わった方も多い。遠く離れた苦境にある人の姿を想像し、そこに心を寄り添い、具体的に行動を起こす。そのプロセスの中には優しさや思いやりといったものは多分あったはずであり、実際に現地に行く人も多い中で、様々なポジティブな価値観の変容はあったように思われる。

COVID-19はどういう変化を促すのか?

そして、今。COVID-19が流行し出して半年くらいが経つ。
私たちは、人類は、何か変わったのか、変わることができたのだろうか。

新型コロナが流行して、世間を眺めた時に、少なからず思うことは多い。その思うことが溜まってきたときに、爆発したように文章で吐露したくなる。
この前に書いたこの記事も、その吐露の一つだ。

なんとなく、個人的には、人類が進歩していけるような、希望的な明るい様相はまだ見いだせていないように感じる。
人と人が優しさや思いやりで繋がるというよりは、怒りや憎しみで分断されていくような感覚が多くなっている気がする。
自らの判断や責任や価値観の下で生き方や行動基準などを定義するのではなく、誰かや権威が定めた価値観や決められた行動基準に従い、多様な価値を許容できない様子が垣間見られることも多い気がする。
人が持つ権利や自由な意思や多様性、本来尊重しなければならないはずのものが非常事態の名の下に無意識に無考えに侵害されていっていることが多い気がする。

私たちは何と向き合っているのだろうか。
私たちは、この状況をどうやって乗り越えていきたいのだろうか。
私たちは、何を大切にしていかなければならないのだろうか。
私たちは、どうなっていきたいのか。
そして、コロナが終息したとき、私たちはどんなステージにいたいのだろうか。

何かを決めるとき、早く決断できるのはとても楽だ。
多様な価値観を持つ人とディスカッションしながら決めるのは、とても時間がかかる。
行動基準を定めるとき、誰かの基準に基づくのはとても楽だ。
自らの価値観に照らし合わせ基準を定めるのは大変ことだし、それで非難を浴びるのはとてもつらいことだ。
自分を守るために、人を非難するのはとても楽だ。
一人ひとりのバックグラウンドに想いを馳せ価値観を許容していくのは、エネルギーが必要だし困難だ。

でも、その目の前にある「楽さ」に流されて、安易に自らの価値観や行動基準を誰かに委ねてしまっても良いものなのだろうか。
そのことは「なぜ生きるか、どう生きるか」という、本来は自身が強く持っていなければならない自分の生に対するオーナーシップを放棄していることにつながっていくのではないだろうか。
死なないということは生きるということと同義かもしれないが、人が生きるということは、もっと価値があるものなのではないだろうか。

人それぞれが考えた「なぜ生きるか、どう生きるか」の広がりこそ、昨今流行りの「多様性」の一つの姿なのではないかと思う。
それを同調圧力によって押しつぶすのではなく、それぞれのバックグラウンドに想いを馳せ価値観を尊重し合うことが、誰もが生きやすい社会につながっていくような気がする。
COVID-19が収束した時、少しでもそういった意識を持つ人が増えることで、じわじわと社会が変わっていく。
それが、人類が行き着けるステージの一つなのではないだろうか。

COVID-19を「恐れる」ということは多くの人には避けて通れないと思うが、ただ「恐れる」だけではなく、この機会に自身が「なぜ生きるか、どう生きるか」を深く考えてみる。
その個人個人の意識や行動の変容が、社会を変えていく本当に小さな第一歩な気がしている。

そして、いろんな人の「なぜ生きるか、どう生きるか」と、そこにつながる価値観に触れてみたい、聞いてみたい。
だいぶ熱苦しくねちっこい話になる気がしているが、その軸や芯がある人と交わりながら、価値観や思想や哲学の交換をしていきたいと思う。
それがまた、自分の「なぜ生きるか、どう生きるか」を紡いでいくのだろう。

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