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安全と安心

長文ファンの皆様おはようございます。

私は日本社会は「安全」ではなく「安心」を重視し、お金を使い過ぎていると考えています。では「安全」と「安心」の違いは一体なんでしょうか。

定義を調べると

安全→「危険がなく安心なこと。傷病などの生命にかかわる心配、物の盗難・破損などの心配のないこと」
安心→「気にかかることがなく心が落ち着いていること」

と出てきます。ISO基準などでは安全は「許容できないリスクがないこと」ともされており、測定可能かつ実現達成可能なものだと理解されています。客観的でもあります。
一方で安心は主観的であり、その人の感じ方なので、測定も難しく、客観的とは言えません。

行政の文書に安全安心と書かれていますが、安全は約束できても、安心は約束できません。

「私を安心させてください」

と言われたとしましょう。もしリソースがふんだんなら、安全にはもっていけるでしょう。しかし、どれだけリソースをかけても

「私はまだ安心していません」

と言われるかもしれません。決して意地悪を言っているわけではなく、本人がそう感じるなら「安心できていない」わけです。

儒教では「安心立命」と呼ばれ、仏教でも使われるようになったのが安心の起源のようで、禅宗においても、真宗においても、「安心とは心の平穏を自ら確立するものだ」とされているようです。
つまり起源からして他者が与えられるものではないと考えられます。

安心したいという気持ちはある種の欲望です。富士山は噴火するかもしれず、南海トラフもあり、ある日病気するかもしれず、誰かに騙されるかもしれない。リスクは絶対にゼロにはなりません。
しかし、現実は同じでも諸行無常の不確定な社会をその都度受け入れながらおおらかに生きていくこともできます。

安心は主観であり、主観にはエビデンスはいりません。安全はデータで議論できますが、「それでも安心できない」と言われてしまえば、どのような議論も成立しません。

安心は大事です。ただ、どこまでいっても主観の問題であるという前提に立たないと、際限がなくなってしまうと思います。


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