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誹謗中傷のメカニズム

誹謗中傷はなぜなくならないのか。私は背景に、人間は反応さえあればいいねだろうが、怒りだろうが構わない、という心理特性があると思う。どこかのタイミングで、自分の中にモヤモヤが生まれたときに誹謗中傷をすることでそれが解消されるという学習をしたのではないか。

私の人生は浮き沈みが激しく、いい時にはたくさんの人が周りにいたが、調子が悪くなると周辺に人が少なくなる。取材も減り十分な注目を集められない。そういった時、こうあるべきだとか、これが問題だ、と声高に叫んでいたら反応があった。私は反応があることに対し、喜びを感じていて行動は加速した。

ある時、進化論の本を読んでいたら餌付けで行動を学習させられる動物の話が出ていた。ああ反応は餌になるのだ、そしてそれを学習すると習慣になるのだとふと気がついた。しかし、賛同賛意が餌というならわかるけれども、相手の怒りや批判的な反応すら餌になるというのはどういったメカニズムなのか。

人間はコミュニケーションの生き物で、自分の存在を確認するために常に周辺の反応を必要とする。蝙蝠が音波を出して跳ね返ってくることで自分や周辺環境を確認するのに似ている。この反応はポジティブなものが望ましいが、反応が枯渇していくと、もう反応さえあればなんだって構わなくなっていく。

反応が枯渇すると、こちらに対し感情を向けてくれるなら、好意だろうが悪意だろうが構わないという気持ちになる。好意の反対には無関心があり、悪意はまだ好意と距離が近い。好意を引き出すことは難しいが、悪意を引き出すことは比較的簡単なので、好意の引き出しに失敗した人が誹謗中傷に流れる。

相手を誹謗中傷し始めると、同じものを攻撃する人たちが集まり仲間意識が生まれ始める。ここで仲間を発見する。ただ仲間を作るのは難しいが、憎むものを同じにすると比較的簡単に仲間を作れる。不満を持つ人は多いからだ。仲間内では誹謗中傷に賛意を寄せるということが起き始め、次第に正義感と自信を得て加速していく。

人間は不思議なもので相手が怒っているのを見ると、ほら見ろどんなに優秀ぽく見えてもあいつも同じ人間なんだと安心するところがある。自分の言葉で相手の感情を揺さぶる事ができると影響を与えたと感じる。影響を与える快感は大きく、誹謗中傷という手段でそれを体験した人は依存していく。DVなども似ているところがあるように思う。

整理すると
①誹謗中傷により最初の反応を得る
②仲間ができる
③賛意が集まり正義を感じ加速し始める
④相手が反応すると盛り上がる
⑤依存が高まり、誹謗中傷を繰り返すようになる
だろうか。この誹謗中傷にあたる部分が善意の行動でも成立する。要するに誰もが寂しさがありそれを何で満たすかだ。

一歩引いてみると、とあるきっかけで誹謗中傷という条件付けに出会い、快の感情を抱き、行動を繰り返し習慣化されただけのように見える。であれば、自分で条件を変えもっと社会と自分の利益にそうものに対象を変えればいいだけだけれども、メタ認知は知的負荷が高く、また善意の世界の多くの人が押し寄せているので競争は激しい。

私には時々ふとどのような誹謗中傷も「お母さんこっちを向いて」と言っているように見える。

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