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パブリックになるとはどういうことか

私がゲーム大好きなのもあってe-sportsにはとても発展してほしいです。その上でスポーツと名づけスポーツ界に入ると、パブリックになってしまうことの意味を理解しておいた方がいいと思います。ではパブリックになるとはどういうことでしょうか。端的に言えばパブリックになるとは「顧客が世間全体になり、故に社会全体で共有されている規範で縛られるようになる」ことだと思います。少し説明します。

スノボやスケボー、サーフィンは、オリンピック種目入りする際に悩んだといいます。それは自分達が育ててきたストリート文化が五輪入りした時に変容してしまうのではないかという懸念です。五輪は品行方正文化が強く、ストリート文化とぶつかることがよくあります。例えば、五輪での判定は、客観的に納得できるものであり、故に測定可能なものでなければならず、かつ正当性があり透明なものでなければならないという考え方が強く影響してます。世界中のすべての層を顧客としているが故に、年齢性別文化などを超え、あらゆる人から見て納得できるものではなければならないからです。

一方ストリートでは、お客さんの盛り上がり、自分らしく演技することを大事にします。それを共有している人たちが選手として参加し、ファンもまたその文脈を共有しているのだと思います。五輪のようにしっかりとした評価基準を設けると、当たり前ですがそこに最適な戦略が生まれます。何を善とするかがはっきりしていればいるほど、機械的な手法がうまくいきます。ある評価基準に向けて皆が向かい、多様性がなくなることをストリート文化はつまらないと感じるそうです。あいつらしさ、俺らしさを大事にする文化です。一方らしさは曖昧なので、公平なジャッジとは遠くなってしまいます。

パブリックになることには良い点、悪い点があります。何が自分や自分達にとって大事なことかを考え、しっかりと領域を定めただ流されてパブリックにならないことが大事だと思います。世界という基準で見ても、長く続くお金持ち家系の方は表に出たがりません。パブリックになることで失うものがなんなのかが家の中で共有されているからだと思います。ここ数年youtuberの方の不祥事が続くように見えますが、私はそうではなくただ彼らは以前と同じ方法で表現している中、youtubeが市民権を得ただけだと考えています。一度パブリックになれば社会規範からは逃れられません。自由は孤独の中にしかありません。

参考資料 「人権ない」、じつはゲーム用語(スラング)

参考資料 なぜ社会規範を逸脱する全ての人が裁かれるわけではないのか

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