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デカルトはバッターボックスにはいない

人間は視覚刺激を受けてそれを判断し行動するまでに0.5秒程度かかります。ところが野球のピッチャーが時速160kmで球を投げると0.4秒でバッターボックスに到達するために到底間に合いません。

眼など情報を得て神経を通り中枢に到達し、脳が判断し神経を通って身体を動かしている時間がないわけです。むしろ中枢を通らず自律分散的に身体が反応しているのに近いと考えています。

脳という中心があり、そこに意識があり、自我が生まれ、その自我こそが私であり、身体は脳に扱われている、というデカルト的世界観は少なくともプロ野球のバッターボックスでは成立していません。

スポーツがうまくいかない時によくあるパターンは

「過剰な自我」

です。

自分の身体を扱おうとし過ぎることでうまくいかない。大勢が見ている前で歩くとどう歩いていいか戸惑うのは、無意識の世界に意識が手を突っ込み過ぎるからです。

この意識と無意識の対立に苦しむことは、運動以外でもあります。精神的に辛い、ストレスを抱えている人、特に真面目な人に多いですが、このような人と話をすると

「率直に感じている自分」

「正しい感じ方をしているか監視する自分」

の間で大きな葛藤を抱いています。

人気漫画カイジの中にこんなセリフが出てきます。

「へただなあ、カイジくん。へたっぴさ........!欲望の解放のさせ方がへた....。」

心身が健全でいることは、無意識の自分、自分すらおよび知らない自分のストレスを理解しそれを適度に解放することだと思います。

社会が高度化すると、求められる正しい振る舞いもまた高度化します。そうなると常に自我が無意識の世界を管理し続けることになりそのストレスによって、人間は心を病みます。

苦しみの原因は自我の肥大化です。夢中がなぜ人を癒すのか。それは一瞬でも自我を忘れ、無意識の世界に身を浸すことができるからだと考えています。

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